かかしの旅 | 空想俳人日記

かかしの旅

かかしくん 大人になったら 先生になろう 



 かつて「ちんば」とか「びっこ」という言葉があった。これらを含めて差別語とされる言葉は、障害者に面と向かって使ってはならない、そういう指摘は至極ごもっともだと思う。
 ただ、ボクたちは、これらを差別語として封印しただけでなく、そうした障害者の存在までも封印したり隔離したりしてはいないだろうか。
 この映画で「かかし」と呼ばれる主人公が登場する。この言葉は差別語ではない。しかし、主人公を「かかし」と呼ぶ者たちには、明らかに、その言葉をかつての「ちんば」とか「びっこ」と同様の悪意や差別の気持ちをこめて使っている。ボクたちは、その言葉という形式だけを解決して眼を閉じてしまってはいないだろうか。
 いじめの問題も同じように思われる。いじめる者といじめられる者、その関係が明らかにあっても、周りは目を閉じていないだろうか。おおっぴらにならないよう隠し通したい、その気持ちが眼を閉じて「いじめなどなかった」そうしたいのではなかろうか。
 ボクたちが「いじめ」を知るとき、もうどうしようもないところまで進んでしまってからしか伝わってこない。例えば、この映画でのバスケ部の「ヤスオ」という男の子の自殺。取り返しのつかないところまで来てから報じられることが多い。
 では、当の本人たちは。何故いじめるのか差別するのか何故いじめられるのか差別されるのか。よく分からない、というか、一言でこうだ、などと決め付けはできないだろう。でも、「いじめなければ、いじめられる方に回ってしまう」というのは、言いえて妙と言うか、そうなのかもしれない。仲間はずれにならない安易な方法、仲間はずれにする側に回る。
 あまり言いたくないが、実は、ボクも小学生の頃、いじめに近い経験はある。それほど悪質でもないし肉体が苛まれるほどではないけど。いじめる方もいじめられる方も。
 まず、いじめた方は、クラスの中での鼻持ちならない男子。三十六色などという誰もが持たない色鉛筆を持ち誰もありえない凄い車での送り迎えをされていた男子。明らかに妬みだろう。そういう普通とは違う奴は普通とは違う遊び方をしてやろう、それは仲間はずれではないが、徹底して皆で集中攻撃。例えば、靴取りゲーム、そいつの靴ばかり狙うのだ、ところが、中に一人いたよ、この映画の、大阪へ引っ越した女の子みたいな。彼は決して大声を荒げなかったが、皆の徒党組みから外れてでも違う行動をした。勇ましさを感じたとともに自分が恥ずかしくなった。そして、ボクもやめた。
 いじめられたのは、ある夏の合宿。信心深い祖母の薦めで東本願寺別院で開かれた子供たちの集団生活。ボクはあるグループから罵詈雑言や不快な行為を受けつづけた。何が気に入られなかったかは分からないが、彼らはそこでグループ化する道具としてボクを選んだのは間違いない。その合宿が早く終わればいい、そう思いつづけた。でも、今思えば、無理していなくても良かったのだ。逃げ出せばよかったのだ。集団生活の経験は大切だ。そりゃそうかもしれない、しかし、そうした連中のコミュニケーションを我慢して受け入れるほど集団生活が意義があるのか。コミュニケーションは道具だ。その伝えるという道具の使い方の能力を高めるのはいい。しかし、コミュニケーションする相手は道具じゃないぞ。報道というマスコミュニケーションも道具だ。しかし、その報道内容までが道具化しているのも事実だ。何の道具? 視聴率だよ。
 学校だって、そうだ。親も教師も学校生活を絶対視している。もちろん世間も。そこから外れるものをアウトローとする、異端児扱いをする。
 アウトローが出てしまえば学校の評判が落ちる。だから、学校に閉じ込めておきたいのだ。そして隠しておきたいのだ。いや、そこまで悪意を持って行なってはいないかもしれない。ただ、学校という集団生活が絶対なのだ。それしか知らないのだ。
 ヤスオの死に号泣し、かかしくんの行方を心配して探す先生が言う言葉は鋭い。母親に向かって「わたしたちこそ、ここから動けないかかしなのかもしれません」と。
 その外では、かかしくんと同じような境遇の子供たちが自然に集い、コミュニケーションをする。学校生活の節目もないものだから、自分たちでそれを意識して作り出そうとする。それが夏休みだ。
 彼らは「夏休みしよう!」と言うのだ。彼らの夏休みは学校生活の中で与えられた休暇ではない。与えられた中で夏休みを過ごす者たちよりも有意義な夏休みを自らの発案で過ごす。二度と得られない夏休みを。まさに、なぎら健壱演じる店のマスターが夏という季節を人生に例えて言った名言そのものだ。
 いじめが嫌で、その環境から逃げるのは本当に逃げることなのか。それは、その環境しか知らない者たちの狭い了見でしかないのではないか。学校という集団生活のジャングルが、もし隔離された動物園でしかないとしたら、そこに無理に押し込めておこうとする思考しか働かない方のがおかしいのではないか。この映画の中で、いじめにあった子供たちが自主的に行動していることを、ボクたち見て見ぬ振りはもうできないだろう。「逃げるな」なんて簡単に言えない、それは単に拘束でしかない。
 もう一度言おう。差別は良くないとして、差別語を使わなくすることで差別そのものもなくなると思っているアンポンタンには、何の問題解決もできない。むしろ差別語の表面的撤廃以降、差別そのものが肥大化してはいないだろうか。ということは、いじめは、特別かつマイナーな出来事でなく、人間関係としてメジャー化している。ただ見えないだけ。進歩と調和を推進し始めて以降、なんら抜本的な見直しが図れていない現代、そういう問題が生まれて何も不思議ではない人間関係の温床が社会の中で育っていると言っても過言じゃないのではなかろうか。
 かかし。一本足のかかし。でも、二本あっても満足に行動できない人からすれば、旅するかかしは全然不自由じゃない。誰とでも仲良くできるとか心と心の魂の交流をするとか、そんな理屈だけでモノを言っている者たちの胡散臭さからも自由であり、自然な交流、自発的な交流をこの映画でボクたちは観たではないか。
 周囲の節穴の目や一歩も動けない二本の立ちんぼ足の方のが不自由なんじゃなかろうか。世の中にはボクも含めて正常だと思い込んでいる二本足のかかしたちがいっぱいいるように思えてきた。そういう認識から改めて考えなおさなければ、いじめ問題の問題そのものは、いつまでたっても分からないのではなかろうか。