ヘイフラワーとキルトシュー | 空想俳人日記

ヘイフラワーとキルトシュー

イモばかり たまにはスパも 食べたいぞ 



 フィンランド映画だ。そういえば、イングマール・ベルイマンは何映画だっけ。一時、東欧の映画、さらにはアジアの映画、そんな映画が騒がれた。ところで「火の馬」は、何処の誰だっけ。
 フィンランドは北欧だけど、スウェーデンやノルウェイとは違う、いわゆる民族的にはヨーロッパでなく、むしろアジアというか、蒙古班がある人種と聞いたことあるけど。シベリウス、ムーミン、森と湖、そんな印象しか知らない。
 いや、そうした国や民族で、この映画を括るのはとりあえずやめようか。というのも此処に登場する家族は、フィンランド人ならではじゃない、と思う。私の家の近所にもいらっしゃる家族。さらには、何年か前の我が家でもあると言えるお話。
 仕事で忙しいおとっつぁん。家事手伝いもしたことがない大学出で家事やるより仕事に性があうだろうとする料理あかんよのおかあちゃん。そして、両親をカバーしようと心がける優等生のお姉ちゃんとわがままで言いたい放題やりたい放題の妹。おそらく家族といえば星の数ほどの違いはあると思うけれど、なあんだ日本にもありうる、どこにもいる家族の肖像がここに描かれている。設定も展開もありふれた家族だ、なのに、なんて、みんな伸び伸びしているんだろう。
 我儘な妹がまた凄い。作られた演技とは思えない。子役の名演技は数々あれど、彼女から比べると、みんな優等生の作られた演技。例えば、最近のダコちゃんの評判。でも、この映画の女の子、それをもぶっとばすパワーがある。 作り手も、カスタマーに涙流していただくために子役にも巧みな演技を求める。そういう演技の加工に釈迦力になるのとは全然スタンスが違うように思えるのよ(ふんとは、これもそうかもしれへんけど)。でなければ、この子、今頃引っ張りだこじゃなかろうか。でも、使えないかもしれないもんね、私たちがよく観る映画じゃ。


 いい娘のお姉ちゃんも、いい娘だけで終わらず、途中で切れる。この切れ方がまたリアル。個人的な話だが、小さい頃の自分、私は長男で、妹が一人いた。その間柄で起きた幼少の出来事が数々甦った。

 そして、変な両親。でも、これ、へんじゃないんだよね。さらに隣人も変。だけど、これもへんじゃないかも。
そう、現実臭さのリアリズムに、まさかありえないだろう空想っぽい世界が同じ次元で同居している。ふつう私たちは現実とおとぎの国は背中合わせだね。でも、ここには、それが近所づきあいとしてのごく普通の隣同士であるように見えた。
 いつもいつも観ている映画、いつもいつも評価している自分の脳味噌。そういうものが、この映画を介して、あっけらかんと、そればかりじゃないよね、そう気がつかせてくれる。もっともっと、こういう映画、紹介してね。儲かりそうな映画ばかりじゃ観る方も作るほうもつまんない。誰もが固まっちゃう、金太郎飴みたいな飴に。だから、こういう、ふと気がつかせてくれる映画、大好き。
 こういう映画を観ると、良い悪いなどと一喜一憂することがバカらしくなる。観る側も大差ないところで、あれはいい、あれはだめ、なんて言いあう。私も含めてレビューする側が反省すべきだなと気がつかせてくれる、映画を見る目のおかしなフィルターを払拭させてくれた、とっても素直ないい作品でありました。
 しっかし、毎日イモじゃねえ、スパおいしそうに食べてたねえ、えらい大量の。イモでも、例えば、あるときはフライドポテト、あるときはポテサラ、あるときは肉ジャガと熱燗(なんじゃそれ)、そういう工夫もいるよねえ。