ランド・オブ・プレンティ | 空想俳人日記

ランド・オブ・プレンティ

大地には 国が栄え 人々は 



 久しぶりに「これぞロードムービー」という作品を観られてうれしい。「全編道じゃないぞ」と言わないでおくれ。
 道で思い出したけど、「道」というフェデリコ・フェリーニの作品こそ、ロードムービーの原点ではなかろうか。このあたり、ヴィムに聞いてみたいな。
 ヴィムの作品自体観るのも、私は久しぶり。ベルリンの続編「時の翼にのって」以来じゃないか。あっ、「10ミニッツ・オールダー~人生のメビウス」は観たけれど。
 いかん、つい話が脱線する。この道の物語は、ベトナム戦争から9.11同時多発テロまでのアメリカそのものを生きてきた男の人生の道だ。監視カメラなどテロ撲滅のための重装備をマイカーに施し、誰から言われたのでもなく、あたかもドンキホーテの如く一人、自由なるアメリカを守ろうとするベトナム戦争体験者の男ポール。車には自由の象徴アメリカ国旗が翻る。
 国旗というと、日本なら直ちに右翼か、となるが、アメリカでは、心の拠り所にする人が多い。もともと多くの民族が移り住み原住民の歴史を完全に無視した新しい歴史を築き出した国。歴史の浅さのためだろうか、その国での国民として地位を確立するためだろうか、自らのアイデンティティを自由を謳歌するアメリカ国家に帰属させ貢献することで認識せざるを得ないようだ。そうした気持はなかなか日本人には難しい。
 でも、いやいや、実は日本だって、戦後のどさくさから今日まで日本を再生させたいと息巻いてきた人たちも似た感情はなかろうか。だからこそ、アメリカも日本を仲間に引き込みやすいし、日本も同じアジアの一員のはずなのに、アジアに背を向けてアメリカのご機嫌を伺う。ちょっと理由が違うか。すんません、すぐ話が逸れる。
 さて、アメリカの正義を信じ、それに従い、わが道こそ王道なりで生きてきた男のもとに一人の少女が登場する。アフリカや中近東で暮らし10年ぶりに帰国する姪のラナ。10年間を海外で生活する間に経験したことが伯父と姪の比較を促す。
 特に9.11テロの時、異国の地でのラナは、周囲の人々が歓声を挙げているのを肌で知る。人々とは決してテロリストでなく、普通の人々だ。他の国でいかにアメリカという国が嫌われているか。
 二人はホームレスのイスラム系青年が殺された事件で再会するのだが、このロードムービー、片や姪のラナは、青年の家族に報せる思いで、片や伯父のポールは、テロリストの根城を突き止めるため、という別なる動機で、ひとつの道を走り始める。そして、事件はポールの思惑とは全く異なるところに着地する二人が出会う殺された青年の兄の歓待も含め、伯父ポールのこれまでの自分の信念が瓦解していく。国を信じ国を自主的に守ろうとまでしたポールに対し、人を信じ生きようとするラナは、そんな伯父も責めない。むしろ、大好きよ、と言う。ラナは分かっているのだ。伯父のポールも、ある意味では被害者なのだ。では誰が加害者なのか。
 同時多発テロがあったニューヨークの現場に二人は呆然と立つ。二年後のその現場は、単なる新しいビルの建築現場という様相でしかない。それがアメリカだ、といわんばかり。ラナは、そこでなくなった人たちの魂に耳を傾けたい、なんて言っているか知りたい、そう言う。
 ポールが劇中で言ってたが、アメリカは第二次大戦以降、冷戦の中でも絶えず勝ち続けてきた、と。ソビエトが崩壊し共産主義も幻と消え、アメリカ最大のポリシーである自由民主主義が正義となった。そして、アメリカの道こそ世界も見習い歩むべき道だと、おそらく、そう信じる人々。それがアメリカの大衆なのだろう。
 しかし、日本人が第二次大戦までに同じアジア諸国に対し何をしてきたかを私たちが認識すべきように、今日までアメリカが世界に対し何をしてきたかをアメリカ国民が真摯に話し合うべき時が今来ているのではなかろうか。そのアメリカの道とは、実は、この映画で伯父ポールが辿った道ではなかろうか。
 これぞロードムービーという映画。テーマは違えど、フェリーニの「道」もザンパノが本当に必要な存在に気づいていく旅だった。
 ここには、ベルリンの天使はいない。でも、ある見方をすれば、姪のラナは天使かもしれない。ヴィムだから描けるヴィムならではのロードムービーを描ききった「ランド・オブ・プレンティ」。豊かな国、それがアメリカ? でも、豊かさって何だろう。経済的繁栄か。いや、全世界を優しく見つめられる広い包容力のある心、それが豊かさじゃないのだろうか。アメリカは、本来そういう豊かさを追い求めることができる国ではなかったのか、そんな問い掛けがヒシヒシと伝わってくる映画だ。