同じ月を見ている | 空想俳人日記

同じ月を見ている

太陽の 知らぬことまで 月は知る 



 深作健太監督のデビュー、おめでとうございます。父上が途中で亡くなってしまった故、監督を継承したバトルも監督なんでしょうが、実質ゼロから監督したのは、この「同じ月を見ている」がお初ですよね。
 さらに、窪塚洋介殿の復帰第一作、おめでとうございます。ところで復帰って、休んでいたの? いったい何してたの、事故だっけ、よく知らない。
 そうした記念碑的でありながら、作品そのものは、結構こじんまりした物語。しかも、キャラ設定、二人の男の子と一人の女の子の友情、そして、二人の男の子同士の女の子奪い合いにもってこいの男の子二人の明確なキャラ設定は、ある意味、イソップ的な寓話というか、ちょっと真摯な言い方すれば、物語のフィニッシュまで自動記述ができるくらいの安易さは拭いきれない。原作であるコミックそのものを知らないので、失礼なことは言えないけど。
 でも、原作はともかく、映像化された本作は、結構な佳作に仕上がっていると思う。窪塚演じるテッチャン、エディソン・チャン演じるドンチャン、黒木メイサ演じるエミの、三人の子供時代からの関係が、大きな物語の柱。エミの役柄は恐らく誰でもよい。そして、テッチャンとドンチャンがそれぞれ、重要なキャラ。
 しかし、もっと重要な役を演じている彼を忘れてはならない。山本太郎だ。彼がドンチャンと道端で肩をぶつける。そこからの山本太郎の役柄、これがこの作品の大きな機動力になっている。しかも、さすが深作健太。親の血筋を受け継いでいると言っては失礼か。この山本太郎のヤクザとの絡みにドンチャンは巻きこまれるのだが、その乱闘シーンはインパクトがある。
 さて、登場はドンチャンと肩をぶつけるところ。そして、同じように肩をぶつけられるようにナイフで刺され息を引き取るまでの山本太郎の役は、物語を大きく動かすモーター。いや、モーターというよりも、自転車(いや三人だから三輪車か)をひとつの方向に走り出させるためのこぎ始めの介助役。役柄としてはほんと、踏んだり蹴ったりで可哀相だけど、彼なくして、この物語、テッチャンもドンチャンも、あのラストの炎の中でのシーンはありえなかった。そして、三人がいつも同じ月を見ている以上に、太郎くん演じる金子くんは、同じ月を見ていた。
 ラストといえば、ドンチャンの心臓が別なる子に移植され、ドンチャンみたいな念力を使う、そのラストそのものは、ありふれてはいるが、そこでの窪塚のなんともいえない表情はラストにふさわしい。ただ、ただ、そのラストにも映るエミこと黒木メイサ、そうだ、あの子役の女の子(この子どっかで見た。CMだなあ)の雰囲気や印象をそのまま大人にすれば、田中麗奈でいけばよかった って、勝手に配役変えるな、ごめんなさいませ。
 みんな同じ月を見ている、ということは、月はみんなをちゃんと見ている。そして、月は何でも知っている、その月の力をあたかも授かったような念力でいろいろ分かっちゃうドンチャン。これはドンチャンの物語、そして、彼の心臓を受け継いだ寺の息子も、同じ月のようなやつ。でも、そのドンチャンの気持を一番察して物語を動かした金子優作役に、私は拍手を送りたい。その彼が面白いことを劇中で言っている。
「人間はゴミ箱だ。ちょっと心を開けば、みんな、そこへゴミをどんどん放り込む。純粋な奴ほど、汚れやすい」というようなこと。
 傷つけるか傷つけられるかしかない、そんな人間の性をドンチャンはちゃんと知っていて、傷つける役をテッチャンに回し自分が傷つけられる役に回った、その本性がテッチャンになら傷つけられても構わない、その最終が死であっても、そういうことを、真っ先に肌で感じ理解した人間、それが金子くんだったのよ。これって、ひょっとして勝手な解釈? 作った監督も「へええ」と言うかもしれない。でも、そういう思わぬ観かたもできる映画って、面白いよね。
 何度も出てくる月、二人を祝福するドンチャンの絵に、エミはドンチャンがいないと言う。いるよ、とテッチャンは言い、カメラは、その絵の中のニコニコノリみたいな月を映す。もちろん、それがドンチャンだ、と言わんばかりに。でも、その月の裏側には、頑張って生きた金子くん役の太郎ちゃんの存在があるように思えるのは、私だけなんだろうか。
 映画館を出て私も空を見上げた。同じ月を観ようとして。同じ月は・・・月はどっちに出ている?