サンフランシスコ、ドゥービー・ブラザーズ、フランツ・リスト、マーヴィン・ゲイ、ヒューイ・ルイス、ボズ・スキャッグス、サンフランシスコ平和条約、フィルモア、ライブハウス、洋楽、ロック、クラシック音楽。

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スポ音5.運命のサンフランシスコ

(音楽は心のスポーツ.5)

 


米国西海岸のカリフォルニア州のサンフランシスコに関係の深いミュージシャンたちの音楽を絡めて、スポーツや歴史などの話しを中心に つらつらと書いております連載「音楽は心のスポーツ」の第5回(最終回)です。

今回は、「運命のサンフランシスコ」と題しまして、さまざまな内容を書きたいと思います。

今回もサンフランシスコに関係の深い音楽曲を まじえていきますよ!


◇運命の条約

さて、都市名「サンフランシスコ」は、もちろん日本でも、大昔から有名な都市名ですね。

長い都市名にも関わらず、日本人が知る「米国の都市名」の、おそらくはトップ3あたりに入るだろうと思います。

江戸時代の使節団派遣、日本人集団移民、カリフォルニア州のシエラネバダ山麓にあった日系人強制収容施設など、日本とアメリカ西海岸の関係は、切っても切り離せない、深いつながりがありますね。

そして、何といっても、日本の運命を決定づけた、あの国際条約が締結された街が、サンフランシスコでした。

* * *

1945年(昭和20)に「太平洋戦争」が終戦をむかえ、日本は、降伏文書の調印後の数年間、連合国側の占領下におかれ、さまざまな戦後処理が行われました。

1951年(昭和26)9月、サンフランシスコにて、日本と連合国側48ヵ国(戦争末期の戦争相手国は、ほぼ世界全体の国々)との戦争状態を完全に終結させるための「講和会議」が開かれ、9月8日に「サンフランシスコ平和条約」が署名・締結されました。
そして、翌年の1952年(昭和27)4月28日に発効となりました。

これで、日本は、世界との戦争状態が終結し、さまざまな縛りを負うことになったとはいえ、地球上で独立主権国家として生き残れる道が開かれました。

おそらく、この戦争が中世の頃の出来事でしたら、日本語の使用は廃止され、日本の歴史文化は破壊され、日本国は消滅したことでしょう。

 

実際には、この時も、日本語の存続の有無や、国土の分割割譲などの検討も行われました。

日本の歴史では、国の存続危機が何度かありましたが、不思議と乗り越えてこれましたね。

* * *

紀元前5千年頃より、数千年の歴史を誇った「古代エジプト王朝」は、戦争を機に、最終的に消滅しました。
古代エジプトに少し遅れて、古代にスタートした日本の天皇一族の血統は、数千年を経て、今も継続していますが、まさに奇跡のような継続力です。
数千年続く「歴史」のチカラが、終戦後の日本を救ったのかもしれませんね。

日本にとって、「サンフランシスコ平和条約」は、復権を果たした、まさに「運命の条約」であったと思います。

日本にとって、サンフランシスコは、忘れることのない「運命の都市」なのだろうと思います。


◇運命のピラミッド

さて、サンフランシスコという都市名を耳にして、あなたは、どんな街の風景を思い浮かべますか?

都市より先に、「ゴールデン・ゲート・ブリッジ」を思い起こす方も多いでしょうが、都市の風景であれば、まずは、この細長いピラミッド状の高層ビルを思い浮かべる方が多いだろうと思います。
この高層ビルを見れば、そこがサンフランシスコであることが一目瞭然ですね。

その建物こそ、1972年(昭和47)に完成した、企業「トランスアメリカ」の有名な高層ビル「トランスアメリカ・ピラミッド」です。

本コラムの冒頭写真の、エジプトの風景の中に、加工して はめ込んだ建築物が、そのビルです。

英語の「trans(トランス)」とは、「越える・超える・移動する・乗り換える・変換する・横断する・向こう側にいく」などの意味が込められており、さまざまな他の語句と組み合わせて使われます。

まさに、時代を超越する「ピラミッド」のよう…。

* * *

下記映像は、字幕設定で、日本語自動翻訳の設定ができます。

 

建築家が、サンフランシスコの建物を解説する動画です。
下記映像は、字幕設定で、日本語自動翻訳の設定ができます。

 

ビルの完成から半世紀以上経った 今の時代に、その建物デザインを見ても、「カッコいい!斬新!」と叫びたくなります。

「法隆寺」や「エッフェル塔」、そしてエジプトの「ピラミッド」のように、サンフランシスコに永遠に残しておきたい建築物ですね。

とはいえ、数千年の間、残っていくのは、並大抵ではありませんね。


◇運命の掟(おきて)

アメリカ音楽を まさに代表する歴史的バンドに「ドゥービー・ブラザーズ」がいますね。
1971年(昭和46)に、カリフォルニア州出身のトム・ジョンストンを中心に結成されたロックバンドです。

田舎風のギター演奏も、都会的な演奏も、ハードな演奏も、ソフトな演奏も、巧みにこなせるギタリストのパトリック・シモンズが、このバンドの幅広い音楽性を支えましたね。

サザンロック、カントリーロック、ウエストコースト・サウンド、AOR(アダルト・オリエンテッド・ロック:日米では意味あいが異なります)など、幅広い音楽性が、このバンドの特徴となりました。

ですが、共通するのは、豪快で、軽快で、元気良くて、哀愁や 郷愁や 都会的センスも備えている… まさにカッコいい、アメリカン・サウンド!

ドゥービー・ブラザーズは、イーグルスともタイプの違う、アメリカ西海岸を代表する歴史的なバンドになりました。

* * *

ドゥービー・ブラザーズの音楽は、二つの大きな表情を持っていますね。

初期から中期にかけての、ハードなロックサウンドとカントリー色が融合した時代と、中期から後期にかけての、都会的で洗練されたサウンドの時代です。

前半は、ギターのトム・ジョンストンが中心で、後半は、キーボードのマイケル・マクドナルドが中心となります。

それぞれの時代にヒット曲がたくさんあり、彼らの音楽の幅の広さと奥深さを感じさせてくれますね。

* * *

この二つの時代の境目となったアルバム作品が、1977年(昭和52)発表のアルバム「運命の掟(おきて)(Livin' on the Fault Line)」です。

「Livin' on the Fault Line」を和訳すれば、「断層線の上で生きる」「激しい対立の中で生きる」などの意味あいがあります。

「Fault Line」とは、「地層の断層線」や、「破壊的な意見の相違や対立」を意味します。

このアルバムは、このバンドの音楽の方向性が変わった決定打になったアルバムで、相当な方向転換の中で作られたことがわかります。

このアルバムの前作からバンドに加わったマイケル・マクドナルドの存在が、このバンドを方向転換させたといっていいかもしれません。
それまでの中心的な存在のトム・ジョンストンは、バンドを離れました。

ドゥービー・ブラザーズが、長く音楽史の中に その名を残すことになるのは、この方向転換により、二つの音楽性が生まれたからでしょう。

* * *

さて、サンフランシスコのある西海岸は、もちろん、地質上の巨大な活断層がたくさんあり、日本と同じように地震が多発する地域です。

まさに、断層線の上の西海岸で生まれてきた新音楽…、ひとつのバンドの対立断層の中から生まれてきた新音楽…、断層線の上に経つ永遠のピラミッド…、それが、ドゥービー・ブラザーズのアルバム「運命の掟」だったのかもしれません。

そのアルバムのジャケットは、西海岸の断層の崖に立つ「トランスアメリカ・ピラミッド」!

1977年(昭和52)のアルバム「運命の掟」から少しだけ…。

♪リビン・オン・ザ・ファウルト・ライン

 

もちろん、サンフランシスコの「チャイナタウン」のこと…
♪チャイナタウン

 

♪エコーズ・オブ・ラヴ

 

1982年(昭和57)のライブ演奏で…
♪リトル・ダーリング

 

ちなみに、ドゥービー・ブラザーズには、2001年(平成13)にアメリカ国防総省の軍事顧問に就任したジェフ・バクスターが、1979年(昭和54)までギタリストとしてメンバーに入っていました。
ジェフは、後に、NASAの諮問委員にもなります。
彼にとっては、「ドゥービー・ブラザーズ」と「国防総省」「NASA」が、同列のキャリアになっていますね。

前述のマイケル・マクドナルドは、このジェフが、バンドに引き入れたミュージシャンでした。
まさに、ドゥービー・ブラザーズの運命を変えた、マイケルとジェフでした。


◇運命の「ウエスト・コースト」

サウンドにおいても、視覚的にも、サンフランシスコを強くイメージさせる、この都会的で洗練されたアルバム「運命の掟」をはじめ、西海岸から生まれた多くの名盤レコードは、「ウエスト・コースト・サウンド」という音楽用語とともに、世界のポピュラー音楽に大きな影響を与えていきます。

そして、あっという間に全米を席巻した、西海岸発の「ウエスト・コースト・サウンド」は、米国だけでなく、日本にも絶大な影響をもたらしました。

日本でも、80年代になってから、都会を中心に、いわゆる「シティポップ」と呼ばれるようになる、大人向けの都会派音楽作品がたくさん生まれてくるようになりました。

それまでの歌謡曲やニューミュージック、フォークにはないタイプの、都会的で洗練された、おしゃれ・ロマンチック・軽快・爽快・メロウな音楽作品がたくさん生まれてきましたね。

日本の多くの若者世代が、「ウエスト・コースト・サウンド」という名称を知らなくとも、都会派の音楽作品に、はまりこんでいきましたね。

* * *

今も、日本で、音楽談義が行われるときに、「ウエスト・コースト」という言葉が出てくると、まずイメージされるのが、70年代後半から80年代にかけての「ウエスト・コースト・サウンド」であり、多くの西海岸のミュージシャンたちです。

今、その当時に活躍した海外ミュージシャンたちは高齢になり、年々、訃報を耳にする機会が増えてきました。
「ウエスト・コースト・サウンド」を、身に染みて体験してきた昭和世代の脳裏には、彼らの雄姿が走馬灯のように駆け巡ります。

当時の日本社会のさまざまな流行の底辺には、アメリカ西海岸からの「ウエスト・コースト」という感覚が、どれほど大きな存在であったことでしょう。


◇運命の地へ

さて、ボズ・スキャッグスも、当初、サンフランシスコを拠点に音楽活動をしており、前述のジェフ・バクスターとも親交がありましたが、サンフランシスコでは、ミュージシャンとして、あまり華々しい結果を残せませんでした。

彼は、サンフランシスコからロサンゼルスに拠点を移してから、あれよあれよという間に大成功!

1976年(昭和51)のアルバム「シルク・ディグリーズ」の大ヒットから、彼の華々しい時代が始まります。
ロサンゼルスにいた、後にスーパー・ミュージシャンになるメンバーたちと組んだことで、ものすごい音楽作品が次々に生まれ始めました。

彼のサンフランシスコ時代の、1972年(昭和47)の曲を…。

ボズ・スキャッグス
♪ダイナ・フロー(Dinah Flo)

 

「Dinah Flo(ダイナ・フロー)」とは、歌詞の中では、女性の名前にかけていますが、実は人間のことではありません。
米国の自動車メーカー「ゼネラル・モーターズ(GM)」の乗用車ブランド「ビュイック(Buick)」に搭載された自動変速機能装置「Dyna flow」のことだろうと思います。
おそらくは車種「ビュイック・リヴィエラ」のことだと…?

勝手な想像ですが、ボズは、これに乗って、サンフランシスコからロサンゼルスに向かったのかも…。
そして、助手席には、どこかの ダイアナさんも同乗していたかも…。

いずれにしても、ボズは、サンフランシスコから、「運命の地」となる ロサンゼルスに向いました。


◇運命のフィルモア

サンフランシスコの、古い音楽の話しを書くにあたり、有名な「フィルモア」をはずすわけにはいきませんね。

話しが長くなってしまうので、概要だけ…。

ビル・グラハム(ビル・グレアム)は、1931年(昭和6)ドイツ生まれのユダヤ人ですが、彼の母親は、彼と彼の姉の二人を孤児院に逃し、ナチスの迫害によって亡くなります。

さらなるナチスからの迫害から逃れるため、10歳の彼は、ひとりだけで米国ニューヨークに逃れることになります。

* * *

多くのユダヤ人が、米国に逃れ、エンターテイメント業界はもちろん、さまざまな業界で大きな業績を残しましたね。
戦争中の過酷な迫害の中を生き抜き、戦後に、単身で立身出世する、そんな成功者が続出しました。

彼は、米国からの補助金を受け取らず(理由は安全上などいろいろ…)、自身のチカラで成り上がり、ダンサー・俳優としては成功しませんでしたが、エンターテイメント業界の裏方として、確実に成長していきました。

ニューヨークからサンフランシスコに移り、60年代の「フラワームーブメント」の中核となる演劇集団の中で出世し、劇団のプロモーター(主宰・興行主)となります。

そして、1965年(昭和40)に「フィルモア・ボールルーム」というダンスホールで、劇団運営の資金集めのための音楽コンサートを開催しました。
そして、そのダンスホールを「フィルモア・オーディトリアム」と改名し、1968年(昭和43)まで経営が行われました。

1968年(昭和43)、サンフランシスコの別の場所に移転し「フィルモア・ウエスト」の名で、世界にその名がとどろくライブハウスとなります。
「こけら落とし」のライブ演奏は、ドアーズ!

このライブハウスは、音質が非常によく、数々のライブの名盤レコードを生みました。
ジェファーソン・エアプレインや、グレイトフル・デッドなどの地元サンフランシスコのバンドはもちろん、アメリカ国内の有名ミュージシャンや、英国の有名ミュージシャンがこぞって公演を行いました。

サンフランシスコに「フィルモア・ウエスト」が誕生した1968年(昭和43)と同じ年、彼は、東海岸のニューヨークにも「フィルモア・イースト」を誕生させました。
こちらのライブハウスも、有名ミュージシャンが続々と公演を行い、ライブの名盤レコードがたくさん誕生しました。

レコードの名盤を通じて、東西の「フィルモア」の名は、世界で不動の地位を得ましたね。

* * *

60年代のアメリカ音楽業界の発展とともに、有名ミュージシャンたちは、さらに収容人数の多い大規模コンサート会場でのライブ公演のほうにシフトしていき、小規模ライブハウスの役割が変わっていきました。

そうした中、ビルは、1971年(昭和46)、西海岸と東海岸の両フィルモアを、経営が順風の中、閉鎖しました。

彼の東西の両フィルモアで生まれた名盤レコードはもちろん、フィルモアをきっかけに、世界にその名がとどろいたミュージシャンは、数知れず!

* * *

「フィルモア」が、世界の音楽史の中に果たした役割は、あまりにも大きいと思います。

米国内で、英国の「ブリティッシュ・ロック」の人気が拡大していき、その人気は、さらに米国から、日本を始めとする世界中に拡大していきましたね。

「サンフランシスコの音楽史」を振り返る上で、「フィルモア」はたいへん重要な歴史です。

1969年(昭和44)のインタビュー

 

ビル・グラハムは、1991年(平成3)、ヒューイ・ルイス&ザ・ニュースのコンサートを見終わって、家に帰る際に乗っていたヘリコプター事故により、60歳で亡くなりました。

* * *

サンフランシスコの「フィルモア・ウエスト」で録音された、名演奏を少しだけ…。

 

ギターは、エリック・クラプトン…
クリーム
♪クロスロード

 

マイケル・ブルームフィールド
♪イット・テイクス・タイム

 

ジェファーソン・エアプレイン
♪プラスティック・ファンタスティック・ラバー

 

レッド・ツェッペリン
♪アイム・ゴナ・リーヴ・ユー

 


◇みんなでワイワイ!スポーツしよう!

今回の連載「音楽は心のスポーツ」は、今回のコラムで最終回となります。

実は、「スポーツ」という言葉は、今現代の日本人がイメージする「運動競技」や「運動すること」とは別の意味あいもあります。

英語には、単数形の「sport(スポートゥ)」、複数形の「sports(スポーツ)」がありますね。
その意味あいや使い方は たくさんあります。

身体的運動、運動会、笑いもの、からかい、見せびらかせ、悪ふざけ、変種、娯楽性、いさぎよい、得意げ、気晴らし、ねえ頼むよ…、ねえ君…、など、たくさんありますね。
ですが、何かみな、底辺でつながっている気がしないでもありません。

* * *

私はかなり昔、こんな話しを聞いた記憶があります。

米国南部の一部地域では、運動をはじめとする人間のさまざまな行動を意味する「スポートゥ」「スポーツ」とは別の意味で、この言葉を使っているという話です。

それは、「みなで集まって、気晴らしに、仲良く楽しく、ワイワイ過ごす」という意味あいだったと記憶しています。
記憶が正確ではないかもしれませんが、そのような意味あいで、その言葉が使われているという話しでした。

ですが、これは、前述の「運動」や「悪ふざけ」「見せびらかせ」などの意味とは少し違いますね。
「スポーツ」は、「みなで仲良くワイワイ過ごす」という意味なの…?

* * *

今回の連載の第一回では、バンド「ヒューイ・ルイス&ザ・ニュース」のアルバム「スポーツ」をご紹介しましたね。

そうか! このアルバムタイトルは、むしろ、こちらの「ワイワイ」の意味なのかも…?
タイトルの真偽について、私は知りませんが、何か納得できた気がしました。

「サンフランシスコ・ジャイアンツ」と「サンフランシスコ 49ers」が大好きなで、ミュージック・ビデオでは、毎回、おちゃめなコントドラマを作っていた…ヒューイ・ルイス&ザ・ニュースの大ヒット曲を、ここで!

(日本語字幕設定で、自動翻訳和訳が出ます)
ヒューイ・ルイス&ザ・ニュース

♪スタック・ウィズ・ユー(1986・昭和61)

 


◇音楽は、心のスポーツ!

実は、「スポーツ」という言葉の語源や由来は、むしろ「仲良くワイワイ過ごす」のほうに近い内容なのです。

* * *

「スポーツ」の語源には諸説ありますが、有力説を書きます。

「スポーツ」の語源をたどると、古いラテン語の「deportare(デポルターレ:あるところから別の場所にモノを運ぶ・移す・転換する)」に行きつきます。

「de(デ)」は英語の「away(離れて・せっせと・あっちへ)」を意味し、「portare(ポルターレ)」は英語の「carry(運ぶ・持つ・抱きかかえる)」を意味するようです。

今でも、「porter(ポーター:英語、ポッティ:フランス語)」、「portare(ポルターレ:イタリア語)」は、荷物を運ぶこと、荷物を運ぶ人を意味していますね。

* * *

ラテン語「deportare(デポルターレ)」本来の、モノを運ぶ・移すという意味は、その後、「気晴らし・気分転換」などの「気持ちをあっちへ運ぶ」という意味あいを持つようになったといわれています。

強制的な運搬作業という きつい仕事の苦痛からの「気分転換」の気持ちを込めて、この言葉が使われるようになったのかもしれませんね。

その後、このラテン語「deportare(デポルターレ)」は、フランスで、フランス語の「desporter(デスポッティ:気分転換・楽しませる・遊ぶ・見世物)」に変化し、それが英語「disport(ディスポート:遊ぶ・楽しませる・輸送)」に変化します。

英語の「sport」は、「disport」の「di」をはずした言葉のようです。
この場合の「di」は、二つ、二倍などの意味あいがあります。

「di」が外され、「倍・二倍」ではない「気分転換・遊び・楽しませ」…それが「sport」。

そして、その英語「sport」が、フランスに逆輸入されたようですね。
日本もそうですが、言葉の変化や逆輸入はめずらしいことでは ありません。

* * *

19世紀後半以降、英国やフランスの支配階級を中心に、陸上、水泳、ラグビー、テニス、バドミントン、フェンシング、ヨットなど、多くのスポーツのルールや用語が確立していきました。
英国のテニスの「ウィンブルドン」大会では、伝統が強く残っていますね。

英国、米国、フランスは、今でも、世界のスポーツ界の覇権において、大きなチカラを持っていますね。

各種の運動種目は、「運動スポーツ競技」ではあるけれど、「気分転換・遊び・楽しませ」そのもの!

何か奥が深そうな、人間の心理と、言葉と、歴史の複合体用語が、スポーツ!?

* * *

日本では、明治維新により、欧米から欧米流の「知育・体育・徳育」が導入される中で、英語「sport」という言葉が、精神と肉体の鍛錬・教育を主眼とするかたちで導入されました。
そして、昔からの日本流の指導教育も加わりました。

ですので、かつての日本の「スポーツ」には、鍛錬・教育の意味あいである「体育」の意味あいが強く、娯楽性は非常に小さなものでした。

かつての日本では、「スポーツは、鍛錬という教育」という思想が中心でしたが、今の日本では、「スポーツ」という言葉の中に、「文化・娯楽」が含まれるようになりましたね。

「趣味は毎朝のランニング」「楽しみは週末の草野球」「寝る前に、ちょっと筋トレ」…今の日本では、スポーツは当たり前の娯楽文化になりましたね。

「スポーツ」には、もちろん教育や、肉体と精神の鍛錬などの意味あいが残ってはいますが、本来の意味あいである、「気分転換・気晴らし・遊ぶ・楽しませる・娯楽」といった意味あいが、日本にも根づいたといえますね。

日本のスポーツ選手たちからも「(厳しい鍛錬の先にこそある)楽しむ」という言葉が増えましたね。
練習の辛さも、苦しさも、いつかは「楽しみ」に…。

* * *

先ほど、「米国南部の一部地域では、スポーツという言葉を、みなで集まって、気晴らしに、仲良く楽しく、ワイワイ過ごすという意味で…」と書きましたが、「スポーツ」という言葉の歴史的変遷を考えると、まんざら、遠い内容の話しではないと感じますね。

スポーツは、時に 挑戦と鍛錬…、時に 気晴らし…、時に 気分転換…、時に みなでワイワイ楽しく…。

そして、音楽も、時に 心の気分転換、気晴らし! みなで ワイワイ楽しく!

そう…音楽は、心のスポーツ!


◇運命に起きること…

さて、歌手マーヴィン・ゲイが残した名曲「ホワッツ・ゴーイング・オン(What’s Going On)」があります。

タイトルを和訳すれば「今、何が起きてるの?」「今、(あなたは)何をしているの?」「今、調子どう?」といったところ…かな。

この楽曲は、「反戦歌」として、また「プロテスト・ソング(抗議メッセージソング)」として、世界的に知られた名曲です。

この楽曲の作者は、歌った本人のマーヴィン・ゲイのほか、アル・クリーヴランド、フォー・トップスのメンバーのレナルド・ベンソンです。

この楽曲は、60年代後半の学生たちによる、反戦や抗議などの「学生運動」の時代に生まれてきた楽曲です。

* * *

サンフランシスコのすぐお隣の、湾の橋を渡った先にある都市オークランドの、そのまた少し北に、都市バークレー(バークリー)があります。

サンフランシスコから距離で20キロメートルあまり、自動車で20~30分ほどです。
東京駅からなら、羽田空港のちょっと先の川崎大師あたりまでの距離と同じくらいです。

その都市バークレーには、カリフォルニア大学バークレー校があります。

* * *

1960年(昭和35)頃から、米国社会では「フリー・スピーチ・ムーブメント」がおこり、カリフォルニア州のバークレーは、盛んな地域となります。
1962年(昭和37)には、抗議だけでなく市民暴動も起こります。

1964年(昭和39)には、カリフォルニア大学バークレー校で、学生による政治活動に関する問題について、学生側と大学側の紛争が起こり1970年(昭和45)頃まで続きます。

1969年(昭和44)には、カリフォルニア大学の構内に、自由な「市民公園(ピープルズ・パーク)」を作ろうとする学生たちと、大学側がもめ、そこに警官隊が介入しましたが、劣勢の警官隊が武器を使用し、学生ひとりが死亡するという事件が起きました。

1960年代後半は、米国、ドイツ、フランス、イタリア、中国、そして日本でも、激しい「学生運動」が起きた時代です。

ここでは、日本での学生運動についての詳細は割愛しますが、今現代の大学の雰囲気とは、相当に違っていましたね。

60年代は、市民による抗議や暴動、デモ、反戦などの活動が、世界中で激化し、一見のどかに見える日本の街でも、治安への不安感が まん延していました。

そして、「ベトナム戦争」は、1964年(昭和39)から1975年(昭和50)まで、約10年あまり続き、北ベトナム・中国・ソ連・北朝鮮などの陣営と、南ベトナム・米国・韓国・台湾・オーストラリア・ニュージーランド・フィリピンなどの陣営の間で、相当な戦死者・負傷者が出ました。
その後、米国の帰還兵の苦悩を描いた映画やテレビドラマが、たくさん作られましたね。

* * *

楽曲「ホワッツ・ゴーイング・オン」の作者のひとりの レナルド・ベンソンは、前述の1969年(昭和44)のバークレーでの事件の現場を通りかかり、実際に見ていたそうです。

この楽曲の歌詞は、60年代当時の、社会不安がまん延する空気の中、「いったい何が起きているの?」「あなたは何をしているの?」「私たちにできることは…」という気持ちを、そのまま音楽曲として表現したものと言われています。

「サンフランシスコ・ベイエリア」での彼の経験が、この楽曲には大きく影響したようですね。

歌ったマーヴィン・ゲイは、強烈な反戦色を含んだ この楽曲の発表に難色を示すレコード会社を押し切って、この楽曲を発表し、大ヒットとなりました。

やはり、そこには、「サンフランシスコ・ベイエリア」という地域が 古くから培(つちか)ってきた何かが、生き続けていたのかもしれません。

そして、今も、この街では… 何が?

皆さまは… What’s Going On?

マーヴィン・ゲイ
♪ホワッツ・ゴーイング・オン(1971・昭和46)

 


◇海を渡って、運命を切りひらく…

さて、5回に渡り書いてきました本連載の最後は、このクラシック音楽曲にしました。

フランツ・リスト(1811~1886)作曲のピアノ曲「伝説」の2番です。

1番と2番の二曲からなる、この作品「伝説」は、1861~1863年に作られました。
日本は、14代将軍の徳川家茂の時代です。

この二つの作品は、リストから、後にワーグナーの妻になる、リストの娘コジマに捧げられた楽曲です。

コジマ・ワーグナーとは、クラシック音楽の歴史の中で、音楽作品の作曲などとは別のかたちで、素晴らしい功績を残した女性です。

* * *

リストには、三人の子供がいましたが、コジマを除く二人は、若くして亡くなってしまいます。
亡くなった二人のわが子のことを、二つの「伝説」になぞらえて音楽で表現し、その二曲を、残った娘に託したのかもしれません。

音楽作品に恥じない、立派な音楽人として、彼女は生涯をまっとうしました。

* * *

この楽曲「伝説」は、古くからの二つの伝説をもとに作られた作品です。

第一番は、都市アッシジにいた「聖フランチェスコ(聖フランシスコ)」が、小鳥たちに説教をし、その小鳥たちが立派に飛び立っていくという伝説です。

第二番は、都市パオラにいた「聖フランチェスコ(聖フランシスコ)」が、さまざまな問題を乗り越え、自分の着ているマントをひろげ、風を受け、その船が海を越えていったという伝説です。
その海とは、今のイタリア半島とシチリア島の間の「メッシーナ海峡」のようです。

歴史上には、「聖フランチェスコ(聖フランシスコ)」と呼ばれる人物は複数います。
「聖フランチェスコ(聖フランシスコ)」という名と、都市「サンフランシスコ」の関係性は、コラム「サンサン SANへの道」で書きました。

* * *

この第二番で表現されている、海を越える聖人の様子は、まさに、アメリカ大陸に渡るヨーロッパの聖職者たちを思い起こさせますね。

日本では、この第二番のタイトルが、このように表現されています。
「波を渡るパオラの聖フランチェスコ」
「水の上を歩く聖フランチェスコ」ほか。

外国では
「Saint François de Paule marchant sur les flots」
「St Francis de Paule Walking on the Water」ほか。

皆さまも、ご自身の服の胸元を 両腕でひろげながら…、そして、太平洋の海を船で渡り、アメリカ西海岸のサンフランシスコの街が遠くに見えた時を想像して、どうぞ、この楽曲を聴いてみてください。

聖者の街、希望の街、夢の街… サンフランシスコが見えてきたぞ!

ピアノ独奏で…

フランツ・リスト作曲

作品「伝説」より第2番
♪波を渡るパオラの聖フランチェスコ

 

オーケストラで…

フランツ・リスト作曲

作品「伝説」

♪第1番「小鳥に説教するアッシジの聖フランチェスコ」(下記動画の冒頭より)
♪第2番「波を渡るパオラの聖フランチェスコ」(下記動画の11分51秒より)

 

 

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無事に 海を渡って、運命を切り開けたところで、本連載を終了させていただきます。

次は、「ロサンゼルス」の音楽・歴史・スポーツの話しを書いてほしいというリクエストも多数頂いておりますので、来年には…?

次も、天使(エンジェル)たちに守られて、無事に 海を渡れるかなぁ…。

サンキュ~! カリフォルニア!
サンキュ~! サンフランシスコ!

 

2024.10.10 天乃みそ汁
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連載「音楽は心のスポーツ」

第1回

 

第2回

 

第3回

 

第4回