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音路93.ひとつの茶にかえる

(カエル コネクション.12)



前回コラム「音路92.童謡にかえる~父かえる (カエル コネクション.11)」に引き続き、今回は連載「カエル コネクション(カエルとつながろう)」の第12回となります。

前回コラムで、信州出身の江戸時代の俳諧人である小林一茶と、ロック・ミュージシャンのエリック・クラプトンさんを並べて書きましたら、一茶にご興味を持たれた方から、多くのメッセージを頂戴しました。
誠にありがとうございました。

そこで、今回は、もう少し一茶のこと、一茶のカエルのことを書きたいと思います。
東京にも、一茶関連の行事や史跡が結構ありますよ。


◇この句のカエルは、誰のこと?

前回コラムでは、「やせ蛙、負けるな 一茶 是(これ・ここ)にあり」の句のことを、少し詳しく書きましたが、今回は蛙が登場する句だけを並べます。

小林一茶は、歴史上の俳諧・俳句の名人たちの中でも、おそらくはもっとも多い数の句を残したであろうといわれています。
二万以上の句を残したといわれています。

正統派のきちんとした句から、ユーモアたっぷりの冗談のような句、愚痴や皮肉たっぷりの句まで、もはやクチを開いたら、しゃべる言葉が句になっているような人物だったのかもしれません。
いつも ダジャレやオヤジギャグを盛り込んでくる、昭和のお父さんがいますが、一茶の場合もよく似ていたのかもしれません。
俳句は、別称で「やかな」といいますが、一茶も、「…や」「…かな」を語尾につけないと気がすまない「やかなオヤジ」だったのかもしれませんやかな。

* * *

一茶は、信州の山奥の里である柏原(現・長野県信濃町)の生まれですので、大自然のことをよく知る人物です。
彼の句には、日本の自然界のたいていの動物や昆虫が、膨大な量で登場してきます。
おそらくは、カエル関連だけでも 100以上はあると思います。
カエルが少しユーモラスな生きものであることもあるのでしょうが、カエルの登場する句は、どこかユニークで、人間らしいカエルにも見えてきます。

膨大な数のカエル関連の句の中から一部だけ…。
前回コラムでも書きましたが、一茶は「蛙合戦」を見物に来るほどの蛙好きです。
その鳴き声も、面構えも、体型も、妙な動作も、きっと好きだったに違いありません。

下記の中に、あなたの気にいったカエル君がいますでしょうか…。

・やせ蛙 まけるな一茶 是にあり
・青梅に 手をかけて寝る 蛙かな
・岩が根に 蛙の眠る 真昼かな
・蛙鳴き 鶏なき東 しらみけり
・よひ闇の 一本榎 なくかはづ
・畔ひとへ 西の蛙の きこえけり
・かりそめの 娶入月よや 啼蛙
・つるべにも 一夜過ぎけり なく蛙
・鳴ながら 蛙とぶ也 草の雨
・油火の うつくしき夜や なく蛙
・蛙なくや 始て寝たる 人の家
・鍋ずみを 目口に入て なく蛙
・初蛙 梢の雫 又おちよ
・あさぢふや 目出度雨に なく蛙
・芦の鶴 又おりよかし 夕蛙
・入相は 蛙の目にも 涙かな
・片ひざは 月夜也けり 夕蛙
・蛙とぶ 程はふる也 草の雨
・草蔭に ぶつくさぬかす 蛙哉
・草かげや 何をぶつくさ ゆふ蛙
・なく蛙 此夜葎も 伸ぬべし
・菜の花に かこち顔なる 蛙かな
・葉がくれに 鳴ぬつもりの 蛙かな
・膝ぶしへ 鳴つきそうな 蛙かな
・痩藪も 己が夜也 なく蛙
・蛙なくや とりしまりなき 草の雨
・影ぼふし 我にとなりし 蛙かな
・なく蛙 夜はあつけなく 成にけり
・葉隠に 年寄声の 蛙かな
・葉隠の 椿見つめて なく蛙
・昼比は くつともいはぬ 蛙かな
・むさい家の 夜を見にござれ なく蛙
・夕蛙 葎の雨に 老をなく
・我門の しはがれ蛙 鳴にけり
・梅の木を 鳴古したる 蛙かな
・浦人の お飯の上も かはづかな
・ちる花を 口明て待 かはづかな
・昼顔に うしろの見ゆる かへるかな
・山の鐘 蛙もとしの よりぬべし
・我を見て にがひ顔する 蛙かな
・花びらに 舌打したる 蛙かな
・藪並や 仕様事なしに 鳴蛙
・夕陰や 連にはぐれて なく蛙
・浅ぢふや 歩きながらに なく蛙
・象潟や 桜を浴て なく蛙
・我庵や 蛙初手から 老を鳴く
・かゝる世に 何をほたへて なく蛙
・からさきの 松真黒に 蛙かな
・草陰に 蛙の妻も こもりけり
・さく花の うちに仕まへよ 鳴蛙
・小便の 滝を見せうぞ 鳴蛙
・掌に居りさうなり 蛙哉
・どち向も 万吉とや なく蛙
・逃足や 尿たれながら 鳴蛙
・橋わたる 盲の迹の 蛙かな
・花の根へ 推参したる 蛙かな
・蕗の葉に 片足かけて 鳴蛙
・ふんどしの やうなもの引 蛙かな
・山吹の 御味方申 蛙かな
・夕空を にらみつけたる 蛙かな
・夕不二に 尻を並べて なく蛙
・浅草の 不二を踏へて なく蛙
・狗に 爰迄来いと 蛙かな
・おぢ甥よ いとこはどこや なく蛙
・川かげや 大続松を なく蛙
・草の葉に かくれんぼする 蛙かな
・ちる花に 腮を並べる 蛙かな
・なの花に 隠居してなく 蛙かな
・のさのさと 恋をするがの 蛙かな
・疱瘡の さんだらぼしへ 蛙かな
・むきむきに 蛙のいとこ はとこかな
・むだ口は 一つも明ぬ 蛙かな
・木母寺の 花を敷寝の 蛙かな
・ゆうぜんとして山を見る 蛙かな
・世の中は 是程よいを 啼蛙
・我杖としるやじろじろ なく蛙
・うす縁にばりして逃る 蛙かな
・草陰につんとしている 蛙かな
・ちる花に のさばり廻る 蛙かな
・菜畠に 妻やこもりて 鳴蛙
・一つ星 見つけたやうに なく蛙
・我一人 醒たり顔の 蛙哉
・御地蔵の 手に居へ給ふ 蛙かな
・亀どのに 負さつて鳴 蛙かな
・炬をはやし立てや 鳴蛙
・ちる梅をざぶりと浴て なく蛙
・天下泰平と居並ぶ 蛙かな
・人を吐やうに居て 鳴く蛙
・目出度の烟聳へて なく蛙
・山吹に 引くるまりて なく蛙
・亀どのに 上座ゆづりて 鳴蛙
・来かゝりて 一分別の 蛙かな
・車座に 居直りて鳴く 蛙かな
・小仏の 御首からも 蛙かな
・ことしや世がよいぞ 小蛙大蛙
・西行のやうに居て 鳴蛙
・笹の家の小言の真似を 鳴蛙
・叱てもしやあやあとして 蛙かな
・上人の 口真似してや なく蛙
・小便を 致しながらも なく蛙
・住吉の 神の御前の 蛙かな
・同音に 口を明たる 蛙かな
・長の日を 脇目もふらで なく蛙
・なむなむと 口を明たる 蛙かな
・逃しなに 何をぶつくさ 夕蛙
・女房を 追なくしてや 鳴蛙
・能因の 雨をはやして 鳴蛙
・のゝ様に 尻つんむけて 鳴蛙
・花蓙や先へ居りている蛙
・山吹や 先御先へと とぶ蛙
・夕やけに やけ起してや 鳴蛙
・我庵に 用ありさうな 蛙かな
・我門へ しらなんで這入る 蛙かな
・足下の月を見よ~鳴蛙
・有明や 火を打まねを 鳴蛙
・庵崎や亀の子笊に なく蛙
・江戸蛙 一寸も迹へ 引ぬかや
・大蛙から順々に 座どりけり
・江州に 片手をかけて 蛙かな
・散花を 奪とりがちに なく蛙
・爪先は 夜に入にけり 鳴蛙
・名乗かや 是から田子の蛙とて
・火の粉追ふ 声のはづれや 鳴蛙
・蕗の葉を 引かぶりつゝ 鳴蛙
・降る火の粉 のり越はね越 鳴蛙
・弁天の 御前に並ぶ 蛙かな
・三ヶ月を 白眼つめたる 蛙かな
・夕不二に 手をかけて鳴 蛙かな
・おれとして 白眼くらする 蛙かな
・親分と 見へて上座に 鳴蛙
・蛙鳴や狐の嫁が出た出たと
・小高みに 音頭とりの 蛙かな
・鶺鴒の 尻ではやすや 鳴蛙
・其声で 一つおどれよ なく蛙
・塔の影莚かすりて なく蛙
・初蛙 来りやしかも 夫婦連
・木母寺の 鐘に孝行 かはづかな
・産みさうな 腹をかゝいて 鳴蛙
・江戸川に かわづもきくや さし出口
・榎迄 春めかせけり なく蛙
・蛙らや 火縄ふる手の 上を飛
・小蛙も なく也口を持たとて
・元の座に ついて月見る 蛙かな
・山吹に 差出口きく 蛙かな
・夕暮に 蛙は何を 思案橋
・赤蛙 皮むかれても 飛まはる
・梅の花 笠にかぶつて 鳴蛙
・つめびらきする顔付の 蛙かな
・雨降と 鎗が降とも 鳴かわづ
・入相の尻馬にのる 蛙かな
・かり橋に そりの合ふてや 鳴蛙
・御座の面々のうしろに 蛙かな
・田堺やひの図をよつて 鳴蛙
・散花を はつたとにらむ 蛙かな
・とは申ながらとや又とぶ蛙
・鳴出して 五分でも引かぬ 蛙かな
・なむなむと 蛙も石に 並びけり
・なむなむと 田にも並んで なく蛙
・向合て 何やら弁をふる蛙
・芦の家の 仏に何か夕蛙
・五百崎や庇の上になく蛙
・いぼ釣て あちら向たる 蛙かな
・大形をしてとび下手の蛙かな
・親蛙 ついと横座に通りけり
・仙人の膝と思ふか来る蛙
・そこらでも 江戸が見ゆるか 鳴蛙
・散花に 首を下る 蛙かな
・掌に蛙を居るらかんかな
・天文を考へ顔の 蛙かな
・鳥井から えどを詠る 蛙かな
・野仏の 手に居へ給ふ 蛙かな
・昼過や 地蔵の膝に なく蛙
・蕗の葉に とんで引くりかへるかな
・名名に鳴場を座とる蛙かな
・吉原や さはぎに過て 鳴かはづ
・じつとして 馬に鼾るゝ 蛙かな
・ちさ蛙 こしやくな口を たゝく也
・どつさりと 居り込だる 蛙かな
・傍杭に 江戸を詠る 蛙かな
・豊年の 図にのつてなく 蛙かな
・山吹へ 片手で下る 蛙かな
・芦の葉に 達磨もどきの 蛙かな
・じくなんで 茨をくゞる 蛙かな
・今の間に 一喧嘩して 啼かはづ
・薄縁やどさり居て 鳴く蛙
・大榎小楯に取て 啼かはづ
・御地蔵の 膝にすはつて なく蛙
・御社へじくなんで入る かはづかな
・けふ明し 窓の月よや なく蛙
・供部屋に さはぎ勝なり 蛙酒
・鳴蛙 花の世の中 よかるべし
・寝た牛の 頭にすはる かはずかな
・星の歌 よむつらつきの 蛙かな

・一理屈 いふ気で居る 蛙かな
……スミマセン、一茶先生。

 

 

 


◇一所不在の狂人有。立泡の消やすき物。

さて、「小林」という姓の方は、日本にたくさんおられますね。
「一茶」はもちろん本名ではなく、俳号です。

1791年、一茶は父親の病気見舞いのため、故郷である信州の柏原(現・長野県信濃町)に帰って来ます。
その時の事が文献「寛政三年紀行」に書かれていますが、その中に、「一茶」という名前について書いてあります。

「西にうろたへ東にさすらひ、一所不在の狂人有。旦(早朝のこと)には上総に喰い、夕には武蔵にやどりて、しら波のよるべをしらず、立泡(たつ淡)の消やすき物から、名を一茶坊といふ」。

つまり、「自分は、さすらいの人生で、一か所にとどまることのない狂人。 頼る人も、頼るものもなく、お茶の泡のごとく消えやすい身の上」という意味あいのようです。
それで「一茶」と名乗ったようですね。

「一か所にとどまることのない さすらいの人生、はかない茶の一泡」といったところでしょうか。


◇四十九年の「有益歩き」

一茶は、1827年11月19日(旧暦)に、65歳で亡くなりましたが、その命日は「一茶忌」とされ、今でも各所で、さまざまな行事が行なわれています。

一茶は、本人が指定して「辞世の句」を残していないといわれています。
後世に通説そして「辞世の句」となった句はあります。
歴史上の著名人でも、「辞世の句」をあえて残していない人物は結構います。

一茶の晩年は、住まいを数年前に大火で失い、焼け残った「土蔵」の中で暮らしています。
いってみれば、被災後の仮設住宅暮らしです。
どのような心境だったでしょうか…。

このような達観(たっかん)した句も残っています。

・ああままよ、生きても亀の百分の一
(まあ、なるようになるさ。長く生きたところで、亀の寿命の100分の1にも満たないさ)

・たらいから たらいにうつる ちんぷんかんぷん
(産湯のたらいで生まれてきて、最期は、湯灌(納棺)のたらいで洗ってもらって旅立つ。私の一生は、結局、ちんぷんかんぷん!)
納棺のたらいや、身体を清める行為は、来世にも人間の赤子として新しく生まれてきてほしいという儀式。

・月花や 四十九年の むだ歩き
(月よ花よと、旅をしながら句を詠んできた49年の俳諧人生は、はかなき旅よ、無駄だったのかな~)

無駄なものであったはずがありません。
その四十九年の俳句旅は、後世の人々に…、そして俳諧・俳句の世界に…、決して無駄ではなく、あまりにも大きな貢献でしたね。
日本にこれだけの数の俳句愛好家を残したのですから…。
もちろん、カエルたちの世界にも、大貢献!
「四十九年は、有益歩き」。

苦しく厳しい生涯ではあったかもしれませんが、栄光を味わい、有名な作品を残し、きっと、それなりに満足した生涯ではなかったかと思います。
クチ惜しいのは、子供たちに早くに先立たれていったこと。
現実の苦しさや悲しさの中でも、勇気と希望、ユーモア精神を保ち続けた、優れた芸術家だったと私は思っています。

* * *

長野県信濃町の「一茶記念館」近くには、修復後の「一茶旧宅(土蔵含む)」や「俳諧寺」があります。

 

記念館サイト内の周辺案内ページ

 

 


◇一茶ゆかりの東京・足立区

さて、東京には、まさにカエルの聖地のような区があります。
「足立区(あだちく)」です。

ここで、足立区の歴史をざっくりと…。

もともと、今の足立区は、4000年くらい前の縄文時代までは海の底でした。
そして、今とは逆の地球寒冷化で、海岸線が後退し、陸地となっていきます。

平安時代には、武士の足立氏一族の支配地で、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の中には、足立遠元(あだち とおもと)がいます。
足立一族は、後に兵庫県丹波市に移っていきます。

もともと、足立という名称の足立郡は、今の足立区の面積の10倍ほどもあり、埼玉県中央部あたりまでの広大な面積がありました。
戦国時代の歴史は割愛しますが、江戸時代初期あたりまでは、東京の今の足立区は、低湿地だらけの荒れた地域でした。
なにしろ、あの荒川が海に流れ込んでいた地域でした。

江戸時代の1600年代になり、やっと今の足立区あたりの新田開発が進み、田畑が広がり、宅地や街が広がっていきました。

* * *

江戸幕府を開いた徳川家康は、江戸のある関東南部の河川の流路を変えるという大土木工事を始めます。
とにかく、頻繁に河川が氾濫する、低湿地だらけの関東南部の江戸湾近くを何とかしないといけません。

この一連の大土木工事により、広大な農地や、江戸という巨大都市が生まれ、現在の東京につながります。
明治時代まで続いた、関東南部の河川の大改良工事は、日本史上最大の土木工事といっていいのかもしれません。
足立区の新田開発も、その一環で行なわれたものです。

* * *

かつての江戸付近には、秩父方面からの(旧)荒川の大量の水と、北関東からの利根川の大量の水の両方が流れ込み、南関東の今の東京や埼玉あたりは頻繁に洪水を起こし、農地や宅地どころか、ぐちゃぐちゃの低湿地が広大に広がっていました。
「足立」という名称の由来は諸説ありますが、その中には、「水辺に茂る 葦(あし)が広大に立ちはだかる土地」というものもあります。

江戸幕府を開いた家康は、巨大河川の(旧)荒川の流路を、今の埼玉県熊谷市付近で入間川と合流させてから江戸に向かわせ、利根川の水は江戸の街に来ないように、大土木工事を行ないました。
つまり、江戸の街に流れ込む川の水量が半減したということであり、荒川と利根川の水が合流して引き起こされる、ごちゃごちゃな大洪水を防ぐことができるということです。

ですから、かつての入間川後半部が荒川となり、今の隅田川が荒川の本流でした。
「隅田川」という漢字表記は江戸時代には使われず、主に「大川」と呼ばれています。

利根川の水が今の隅田川に来なくなっただけでも、洪水が激減し、南関東には安定した農地が各段に増え、宅地や街が膨大に広がりました。
今の足立区の地域で新田開発が始まり、「千住(せんじゅ)」という名の宿場町が整備されていきます。

千手観音や、戦国武将の千葉氏に、その名の由来があるという説もありますが、いずれにしても、千人かそれ以上の住人が住み始めることになる最新大型都市でした。
少し前の世代の江戸っ子は、「せんじ」と発音していましたね。

* * *

江戸幕府は、江戸の防衛上の重要戦略として、その(旧)荒川に「千住大橋」を架け、それを渡った先に「千住」という重要な宿場をつくり防衛拠点としました。
江戸の街の西側の多摩川などには、一切、橋を架けません。

その宿場町「千住」は、江戸から始まる主要街道の最初の宿場町です。
その街道こそが、徳川将軍の緊急脱出ルートである日光街道と奥州街道です。
日光東照宮や水戸につながるルートです。
中山道は、それよりずっと西側の位置を通っています。

今の足立区の地域は、この千住を中心に発展整備されていくことになります。
源義家ゆかりの「竹ノ塚」も、発展地域のひとつです。

新時代の大都市の江戸には、西日本から多くの仏教宗派が続々と布教にやって来て、大寺院を建設していきましたが、この重要拠点の千住付近にも、相当にやって来ました。

一茶が江戸にいた1800年前後は、新田開発が進み、すでに相当な面積の田んぼが広がっており、蛙も大量にいたと思われます。
カエルの大合唱は、すさまじかったことでしょうね。
お寺も相当数に及んだものと思われます。
この地域は、もともと低湿地であったこともあり、大小の池がたくさんあった地域です。
後ほど、一茶とつながりが非常に深い、池を持つ、足立区の あるお寺のことを書きます。


◇江戸東京は、荒川を制してこそ…

さてお話しは、明治時代のことです。
荒川の流路を変更したとはいえ、今の隅田川の川幅では、大雨時の荒川の水は処理できず、たびたび洪水を引き起こしました。
江戸時代に、何度、大川(今の隅田川)の数々の橋が流されたでしょう。
もはや大都市となっていた江戸東京で、大川の川幅を広げることなどできません。

明治時代になり、このままでは東京の発展の疎外要因にもなるため、明治政府は、荒川本流としての別の人工の河川ルートを、よその地に作り、それを荒川本流としました。
それが今の東京湾までつながる荒川です。
かつての荒川本流の大川(今の隅田川)は、そのまま残されます。

* * *

今の東京都北区の赤羽近くに「岩淵水門」を作り、人工の河川ルートの(新)荒川と、水門で水量を調整する(旧)荒川(今の隅田川)の両方に、荒川の水が流れるようにしました。
つまり、荒川の水を水門で分水し、二つの流れで東京湾に流し、荒川の氾濫を防ごうとするものです。
隅田川に流れ込む水の量を調整し、東京の街の洪水を防ぐものでもあります。
これにより、足立区、葛飾区、北区、荒川区、墨田区、江東区、中央区などの地域が洪水から守られることになりました。

そのために、足立区の千住地域は、旧荒川(今の隅田川)と、今の荒川に挟まれた扇形の島のような不思議な地形となりました。
かつて、千住は、一茶ゆかりの竹ノ塚や、西新井の地域と地続きだったのですが、この新しい荒川によって、分断されてしまいました。
重要な防災のためですので、仕方ありません。

* * *

ちなみに、前述した岩淵水門のあたりには、江戸時代のかつての水運の重要ルートの起点がありました。
埼玉県の川越に向かう新河岸川と、埼玉県の見沼田んぼに向かう新芝川です。

「小江戸」と呼ばれる埼玉県の「川越」には、幕府の宗教人のトップである天海僧正の喜多院があり、三代将軍家光や春日局につながる重要な戦略拠点です。
もともと、荒川の西側にある川越とは、荒川がもし氾濫した時に、荒川の東側を通る中山道がある大宮台地側を守るために、あえて川の水の流し込む地域として整備された広大な地域です。
川越城は、その中で水に浸かりにくい場所にあります。
その大宮台地こそが、今の足立区とつながる、かつての「足立郡」で、「北足立台地」です。

江戸時代の川越は、大川(荒川)と新河岸川を使い、江戸から船で数時間で行くことができます。
新河岸川は、江戸と川越を結ぶ重要な物資輸送・政治軍事ルートでした。
今は、関東平野の各農業地域から東京に、高速道路などの主要道路を使って、野菜や物資が運ばれてきますが、江戸時代は水運こそが物流の主役です。
もちろん新河岸川は、重要な輸送路でした。
関東南部のこれだけの川の数と豊富な水の流れは、上手く使えば、相当な効果を生みますね。

* * *

2006年(平成18)に、動物のオットセイが、東京湾から荒川を遡上し、この新河岸川に入り込み、川越の田んぼまでやって来たことがありましたね。
海から何十キロも離れた川越の、それも田んぼに、オットセイがいたら、驚かないほうが無理ですね。
動物園ではなく、まさか海から来たとは…!
当時、東京や埼玉では驚きの大ニュースとなり、新河岸川から「シンちゃん」と名付けられ、保護され、その翌年に海にかえされました。
私も、川越に行った際に、その田んぼを見に行ってしまいました。
オットセイのほうの「シンちゃん」は、今も元気でいてくれているでしょうか…。

* * *

さて、実は今でも、荒川周辺では、洪水対策用の数々の土木工事が行なわれ続けています。
家康の時代から、断続的に進められているといっていいのかもしれませんね。


◇2019年の台風19号

2019年(平成31・令和元)に、台風19号が東京を襲いましたが、その時の大雨で、いよいよ荒川と隅田川が東京周辺で洪水になりそうになり、下町地域の住民が大量に緊急避難しました。
あまりの避難民の多さに避難所がどこも満杯、洪水が来ないであろう23区西部の山の手地域にも避難民が移動しはじめ、山の手地域(山手線西部から西側)も、洪水とは別の意味で覚悟しました。

ですが、荒川の大洪水を想定した、「彩湖(さいこ)」を含む大規模公園(調整池・貯水池)が1997年には完成しており、その荒川の大量の水を公園内に流し込みました。
そして、河川敷にある巨大公園が、まるで湖のようになりました。

前述の岩淵水門も、明治時代に造られた初期の「赤水門」のすぐ近くに、昭和時代により強化された新しい岩淵水門「青水門」が造られていました。
この「大規模公園(調整池)」と新水門が、東京を守ってくれました。
おまけに、荒川には、昭和以降、よりパワーアップされた「スーパー堤防」が築かれていました。
完全に、洪水を想定し、それに備えたことの勝利です。
首都防衛を本気で行なった成果ですね。

* * *

その台風19号では、荒川だけでなく、利根川も相当に危険な状況でしたが、もしダブルで堤防越水や決壊をしていたら、東京都心に膨大な量の水が流れ込んだはずです。
もし、東京都心に大量の水が流れ込んでいたら、相当な死者や被害が出たことでしょう。
相当に切羽詰まった状況でした。

私も、テレビニュースを見ながら、思わず「神頼み」したくなりました。
もし東京の長期間の都市機能麻痺が起きていたら、日本中に影響を与えたでしょうね。

この台風19号は、関東を始め、東日本の各地にたいへんな被害をもたらしました。
東京23区西部の多摩川でも一部で洪水や逆流を引き起こし、死者も出ました。
信州でも、千曲川が大洪水を起こしました。
東北地方各地にも大きな被害が出ましたね。
忘れてはいけない、水害の歴史です。

* * *

この時の台風通過後の荒川の様子は、住民の多くの方が映像に残してくれています。

足立区民の方が、台風直後に岩淵水門(新水門と旧水門)と荒川の様子を撮影した映像です。
多くの住人が、心配して荒川を見に来ています。

 

岩淵水門

 

岩淵水門よりも少し上流の埼玉県朝霞市付近

 

荒川の水を彩湖のある巨大公園(調整池)に緊急流水。
台風通過翌日の荒川第一調整池(彩湖)

 

私も東京に何十年と暮らしていて、これほどの台風の大雨被害は知りません。
荒川下流の南側である隅田川周辺の都心に、この水が来ていたらと思うと…。
埼玉県の被害映像

 

下記映像は、前述の2019年の台風19号の時の鉄橋の模様ですが、この台風の後、鉄道会社は このあたりの鉄橋および線路の位置を大幅に高くする工事をすぐに始めています。
それだけ、この時の台風は、地域に恐怖を与えたということですね。

下記映像は、どこかのテーマパークの水上鉄道のアトラクションではありません。
荒川を渡る鉄道

 

* * *

大昔から、日本各地の洪水の多い地域では、「白鬚(しらひげ)」や「住吉(すみよし)」の神様がいる神社が造られ、神様らに洪水の水を防いでくれるように祈っていましたね。
ですが、近年の地球温暖化により、短時間雨量の増大や、線状降水帯などが引き起こされるようになりました。
神通力が、なかなか通じにくくなっているのかもしれません。

カエルたちなら、洪水でも、へっちゃらかもしれませんが、人間はそうはいきません。
日本中の大規模河川は、今、新しい危機に備えなくてはいけない時期に来ている気がしますね。

前述しました、河川に隣接した広い公園貯水池、地下の貯水槽や河川、重要インフラの高位置への移転や改造、そして荒川の流れを二つに分けたように巨大放水路の建設、他にも、津波避難用のような高層避難タワーの建設、高層建築物の駐車場の台風時の開放、コンビニのネットワークを使っての浸水被害情報収集など、巨大自然災害に向けた新しい取りくみが、日本全国で求められているように感じます。

大きな河川に、浮き沈み可能な巨大船舶型の避難所は無理かな…。
高速道路の高架は、避難場所にできない?

ついでに、「巨大てるれる坊主」も必要かな…?
♪てるてるぼうず(五重奏)

 


◇一茶ゆかりの炎天寺

さて、お話しを 小林一茶に戻します。

そんな足立区にも、たくさんの「ゆるキャラ」がいますが、その中にカエルの「チャップン」がいます。


足立区のカエルキャラ「チャップン」

小林一茶の句にたくさん登場する「カエル」に、ちなんでいます。

足立区の竹ノ塚にある、一茶ゆかりの「炎天寺(えんてんじ)」では、毎年一回「一茶まつり」が開催されています。

この「一茶まつり」では、なんと、あの句にある「やせ蛙」が登場し、ヒキガエルと相撲をとるという、びっくりイベントが行なわれています。
毎年11月に行なわれているそうです。

蛙相撲

 

* * *

前回コラムで、一茶は、あの句「やせ蛙、負けるな一茶ここにあり」を信州の地で詠んだと書きました。
実は、江戸の炎天寺で詠まれた句であるという説も存在します。
今、この句碑が、足立区の炎天寺にもあります。

一茶は、江戸に暮らしていた時期に、この炎天寺によく来ていたようで、俳諧のお仲間がいたようです。
境内にカエルが集まる池があり、「蛙合戦」をしていたようですので、「蛙合戦」好きの一茶が、頻繁に来ないはずはない気がします。

一茶の江戸の住まいは、この炎天寺から少し南下した、今の江東区にありました。
江戸には、炎天寺だけでなく、蛙合戦が行なわれる古池を持つ寺が、山ほどあったはずです。
江戸の寺の古池に、蛙が来ないはずがありませんね。

炎天寺は、源 頼義・義家の親子が「前九年の役(1051~1062)」で奥州に向かう際に、この地で、その六月(旧暦)の暑い炎天下の日に敵の襲撃にあい、戦闘を行ない勝利した有名な寺ですので、一茶も興味を持たないはずはないと思います。
この地に残る地名「六月(ろくがつ)」は、自身の結婚式のように忘れることのない 大切な名称。

角松敏生(かどまつ としき)さんの1991年(平成3)の曲。
♪ジューン・ブライド

 

「炎天寺」と「六月八幡神社」を紹介したサイト

炎天寺サイト

次回コラムでも、あまり知られていない、足立区の別の素敵な名所をご紹介します。


◇あのカエルの句はどこで…

江戸から、故郷である信州の柏原(現・長野県信濃町)に戻った52歳の一茶は、1814年に、28歳の「きく」と結婚します。
初婚です。
前回コラムで書きましたが、それまでに、小林家の相続問題を解決させています。

1816年4月14日(これは旧暦ですので、今の3月中旬です)に長男の千太郎が生まれます。
1816年4月20日に一茶が訪れた寺は、江戸ではなく、前回コラムで書いたとおり、信州の小布施の岩松院であるのは事実だと思われます。
1816年5月11日に、千太郎が亡くなります。

1816年の夏に、江戸の炎天寺で「夏蝉鳴くや六月村の炎天寺」という句が詠まれていますので、1816年の夏には、一茶が江戸に来ていたことになります。

* * *

私の推測ではありますが、句「やせ蛙、負けるな一茶ここにあり」の「やせ蛙」のモデルは、信州・小布施の岩松院のカエルであるのは間違いないであろうと思います。
ただ、この句の最終形がどこで完成したかはわかりません。
一茶に限らず、句の名人たちは、句に使う言葉や漢字を入れ替えながら、最終の完成形に仕上げていくことはよくあります。
特に、一茶は、似たタイプの句を同時に幾つか作ることも多く、そういった意味では、最終完成形ができ上った場所は、特定できないのかもしれません。

前回コラムで書いたとおり、この句は、おそらくは生前の長男に向けて詠んだものだと思われますので、当初は信州での作であろうと思われます。
ただ、長男を失った直後の一茶が、江戸に来ても、今度は、失意の自身に向けて、この句を頻繁にクチにしていたのではないだろうかとも感じます。
炎天寺の方々も、何度も、その句を耳にしたのかもしれません。
一茶が、炎天寺で、長男の死のこと、カエルのこと、信州の暮らしのことなどの話しをしないはずはありません。
江戸にやって来たのは、おそらく長男の死にも関連しているのではと思います。

この「やせ蛙…」の句碑は、信州・小布施の岩松院と、江戸の炎天寺にあります。
4月20日あたりに詠んだというのは事実だと思われますが、最終的に句を完成させたのは、どの場所か…?

あえて「武蔵国の竹の塚で、4月20日に、蛙合戦を見に…」と書かれた文献の編纂に、一茶は絡んでいないはず…。
悪意はなかったでしょうが、何か事実の混同や思い込みが起きたのかもしれませんね。
歴史研究家としては、この「…竹ノ塚で」と、「4月20日…」の文章の間に、本来は何か別の文章が存在していたとも考えられます。
有名な織田家の歴史書や、秀吉や家康のことを書いたものであっても、後世の人が、政治的に都合の悪い内容を削除することは、当たり前のようにあります。

ともあれ、岩松院と炎天寺は、名句とカエルで深くつながっています。
「一茶の行くところ、カエルあり」ですね。

* * *

いずれにしても、一茶が、長男が亡くなった同年に江戸の炎天寺に来ていたことは事実だろうと思います。
両方の寺に、この句碑があって、足立区の炎天寺と信州・信濃町の両方で「一茶まつり」が行なわれていても、何も不思議はないと感じます。
それだけ、江戸時代の江戸で、一茶が人気者だったのだろうと思います。

コロナ禍が落ちつきを見せ始め、各地で、お祭りや行事が復活しています。
炎天寺の「蛙相撲」などが復活しているか確認してから、どうぞ「やせ蛙」を見に行ってみてください。

亡くなった長男の千太郎も、父の一茶と一緒に、今、その「蛙相撲」を天国で喜んでくれているはず…。

「相撲甚句(すもうじんく)」の中の「本唄 かえる」。
歌詞に「一茶」も登場します。
♪かえる

 


◇有楽斎の茶の名席 ~ ジョアンナ

日本には、国宝の名席「茶室」が三つあります。

京都に二か所… 千利休の「待庵(たいあん)」、小堀遠州の作と伝わる大徳寺の「密庵(みったん)」。
もう一か所… 愛知県犬山市にある「如庵(じょあん)」は、織田信長の弟である「織田有楽斎(おだ うらくさい / 東京の有楽町の名の由来))」が京都の建仁寺の一部に造ったものですが、その後、各地を転々とした後に、昭和の時代に犬山市に移築されました。

* * *

有楽斎は、信長の兄弟11人の中の下から二番目の弟といわれています。
戦国武将としての才覚は、ほぼなかったといわれています。

「本能寺の変」の時に、信長の長男の信忠とともに妙覚寺にいましたが、脱出できる可能性が十分にあったであろう信忠は京を脱出せず切腹。
「本能寺の変」は、首謀者たちからしたら、信長親子を同時に抹殺しなければ意味が半減してしまいます。
織田信長と信忠が京で死に、有楽斎が無事に京を脱出したことから、当時は周囲から裏切り者、卑怯者と呼ばれます。

実は、織田有楽斎は信長の13歳下の実弟とはなっていますが、母親など素性がはっきりしません。
武人としては ほぼ実績を作れず、織田軍の中で、信長の弟なのに、なかなか出世できない存在でした。
そんな彼でしたので、武芸ではなく、「茶の湯」などの文化の世界に冒頭していったのです。

「本能寺の変」は、巨大な陰謀の中の一片ですが、彼がどのような考えや役割を果たしたのかは、はっきりしません。
ただ、信長の弟にも関わらず、京都を脱出できた数少ない織田の近親者です。

とはいえ、あの名門織田家の信長の実弟ですので、秀吉も、家康も、無下には扱えません。
ただ、彼は武力で対抗できるほどの武将でもありません。
信長の息子たちが次々に失脚していく中、有楽斎はしっかりと存在感を示していきます。

* * *

この「有楽」の「楽」は、信長が推進した政策「楽市・楽座」の「楽」と同じものと思われます。
この「楽」は「楽しみ」ではなく、「縛りのない自由」という意味です。
信長の「楽市・楽座」とは、それまでの日本伝統のガチガチの保護主義経済からの市場開放、自由経済を意味しています。

有楽斎は、当初「無楽」と名乗ろうとしましたが、秀吉が許さず、「有楽」とせよと命じられます。
この話しも、何か茶番の匂いがしないこともありません。

大坂城の秀吉は、こんな台詞を言ったかも…
「無楽なんて言うたらアカンわ! 誰のおかげで自由に生き延びられてると思ってんねん。 まだまだ織田の名と、茶の湯の世界で働いてもらうで! 織田家はかつての織田家では、あらへんで!」。

* * *

「茶の湯」の茶人・有楽斎のつくった「如庵」について、当時の名茶人たちは、「あの如庵に茶の湯の わびさびはない」、小堀遠州は「あの如庵の有楽斎の茶の湯は、千利休とはまったく違う」と言いました。

有楽斎の「庵の如し(庵と同じような…)」の「如庵」は、真に武人にはなれなかった彼が、さまざまな「茶の湯(後の茶道)」の縛りや、血筋の縛り、武家の縛り、周囲からの誹謗中傷という縛りから逃れるため、他の茶の世界の「庵」と一見同じようにも見えるが、実は異なるタイプの建築物を、そして兄の信長の思想である縛りを排除した「楽(自由)」を、実は目指したものだったのかもしれません。

「如」は、真如、如来、如法、如実などの、そのものを示す「如」でもありますね。
「如庵」とは、何を意味しているのか…。
信長にとっての「楽市楽座」と「安土城」が、有楽斎にとっての「如庵」なのかもしれませんね。

当初「無楽」と名乗ろうとした有楽斎にとっては、名ばかりの「有楽」を権力者によって名乗らされていたのかもしれません。
彼は到底、「自由人」には なれなかったのだろうと感じます。
織田有楽斎という人物は、本当に満足できる茶を、所望することができたのでしょうか…。
今の東京に、「無楽町」はなく、「有楽町(ゆうらくちょう)」が残っています。

如庵

 

* * *

クール&ザ・ギャングの1983年(昭和58)のヒット曲。
♪Joanna, I love you
♪You're the one, the one for me
ジョアンナ、愛してるよ!
僕にとって、ただひとりの最愛のひと…。

「如庵」って、難しい漢字だけど、何て読むの… それはね


♪ジョアンナ

 


◇茶・Cha・Tea の音楽

ここからは、小林一茶にちなんで、茶、TEA、Cha の音楽を…。

まずは、ひとりでお茶を…

(歌詞の概要意訳)
君との別れを決めたのは、オレ自身だ。
そう、もう戻ることはできない。
ひとりでお茶を飲む その数分は、まさに一生分に感じる。
まるで人生のように長く感じる… そのお茶の時間。
オレは、ひとりでお茶を飲む。

レッド・ツェッペリンの1976年(昭和51)の曲。
♪ティー・フォー・ワン

 

* * *

次は、二人でお茶を…

(歌詞の冒頭だけ意訳)
ねえ、想像してみてよ。
あなたの膝にのる私を…。
二人だけでお茶を楽しむのよね。
そう、 あなたとわたしの二人きりで…。

1950年(昭和25)の米国映画「二人でお茶を」から
ドリス・デイさん(女性)と ゴードン・マクレエさん(男性)
♪ティー・フォー・トゥー

 

♪ティー・フォー・トゥー

 

サラ・ヴォーンさん(1964年にカバー)
♪ティー・フォー・トゥー

 

* * *

1986年(昭和61)の石井明美さんの大ヒット曲。
♪Cha Cha Cha(チャ チャ チャ)

 

原曲は、イタリアのダンス音楽グループ「フィンツィ・コンティーニ」の1985年のヒット曲。
今の時代に聴くと、バブル崩壊前の、何とも平和な時代だった!
♪Cha Cha Cha

 

* * *

ここで、ラテンダンス「チャチャチャ」を…

自身では踊れませんが、見ているだけで、元気をたくさんもらえます。
Cha Cha Cha

 

私のあくまで想像ですが、小林一茶なら、こういうご陽気な踊りを好んだのでは…。
リカルド・コッキさんと ユリア・ザゴルイチェンコさんのダンス。
Cha Cha Cha

 

ロック音楽好きの方に、こんなキレッキレのダンスも…。
先ほどの、リカルドさんとユリアさん。
ZZトップの1974年の曲「ラ・グランジェ」でキレッキレ!
♪ラ・グランジェ

 

リカルド&ユリアのダンス

 

次のオリンピックからダンスが種目になりますが、個人的に、こうした社交ダンスも種目に入ってもいい気がしますが…。


◇お茶のひと摘み

最後は、ゆっくり、お茶でひととき…、お茶の「おてまえ(御点前)」…。

たまには、午後の「アフタヌーン・ティー」で、ゆっくり音楽のひととき…、仲間と楽しく会話…。
まあ、なんでも いっさ(一茶)!

英国王室認定の紅茶ブランド「ヨークシャー・ティー」の唄?
♪ザ・ティー・ソング

 

* * *

先ほど、俳号「一茶」の由来を書きました。
はかないお茶の「泡」ですが、茶道の流派によって、その泡が違うのだそうです。
私は、茶道を観たり、感じるのは好きですが、茶道にまったく明るくないので、よくわかりません。

ここは雰囲気だけ、女優の柴咲コウさんの映像で…。
何か、とても素敵な空間と時間です。

 

 

一茶の顔を思い浮かべながら…、一気に、一茶積み!

♪茶摘み

 

♪茶摘み

 

♪茶摘み

 

♪茶摘み

 

* * *

最後は一茶の句を二つ…。

・新茶の香(か) 真昼の眠気 転じたり
(すがすがしい新茶の香りは、昼間のぼんやりした眠気から、一瞬に目覚めさせてくれる。)

・屍(しかばね)のやうな 茶もうれるなり 夏木立
(夏の暑さの中では、屍のようになった葉の出がらしのお茶までが、よく売れている。青々と茂っているは、そこの木立だけだね)

やっぱり一茶…、屍になっても、ただものではありません!
死んでからも、作品が売れ続けていますね。
茶はうれるなり!

ひとつ…あまりの茶に福あり。

そうですよね… 一茶さま。

* * *

2022.10.16 天乃みそ汁

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