NHK大河ドラマ「麒麟がくる」。源氏と平氏の誕生と成長。美濃源氏と土岐氏。水色桔梗紋と明智光秀。桔梗のチカラ。光秀と信長の宿命。オカトトキ。

 

 

麒麟(3) 水色桔梗(みずいろ ききょう)

 

前回コラム「麒麟(2)美濃国」では、美濃国の位置関係や、戦国武将にとっての下克上のことなどを書きました。
今回は、美濃国の土岐(とき)氏のことを中心に書きたいと思います。



◇反逆は、忠誠

大河ドラマ「麒麟がくる」の第二回の放送内容は、土岐氏から斎藤氏に実権が移る美濃国のことや、「裏切り」の闇の深さを実感できるものでしたね。

個人的な思いではありますが、光秀本人も不本意であろう「裏切り」の権化のように呼ばれることになる、光秀の人間像ができあがっていくには、幼少期から青年期の、土岐氏をめぐる美濃国(岐阜県南部)特有の勢力争いが深く関係しているように感じます。

「裏切りの権化」という表現は、少し強烈かもしれませんが、その生涯を通じて、光秀ほど、「裏切り」という言葉に縁が深い武将も少ないかもしれません。
彼の「裏切り」の思想は、善なのか悪なのか…?

* * *

明智光秀の「本能寺の変」という行為について、明智一族や、その親戚筋からみて、光秀は「裏切り者」なのか…?
いや、もしかしたら、「英雄」のほうかもしれません。

織田家の一族からみたら、まぎれもなく「裏切り者」でしょう。
織田家家臣団からみたら、それぞれの家臣の考えによりけりかもしれません。

光秀からみたら、「本能寺の変」の後の同盟者たちや、光秀の死後の一族や親戚たちは、「裏切り者」なのかもしれません。
彼は、ある意味、「裏切り者」であり、「裏切られた者」であったのかもしれませんね。

その当時の、世の中の庶民や他の武家からみたら、さて、どうだったのでしょうか…?

* * *

私は、「本能寺の変」を考える時、いつも何か迷走の闇に入り込んでしまうような気になります。

光秀の行為が私利私欲だけのものであったなら、それを世の中に対する「裏切り」と呼ぶのか…。
明智や土岐の一族の生き残りをかけた行為であったのなら、それを「裏切り」と呼ぶのか…。
平氏の織田家よりも、明智自身の由緒ある源氏一族を優先することを、「裏切り」と呼ぶのか…。
武士の上下関係において、その序列を崩すことを、「裏切り」と呼ぶのか…。
主君の悪行や野望を、家臣が制止させることを、「裏切り」と呼ぶのか…。
一族の滅亡や、自分の死を制止させるための防衛行為を、「裏切り」と呼ぶのか…。

「裏切り」とは二面性のある言葉のようにも感じますが、問題なのは、どこから見たら「裏切り」にあたるのか、ということなのかもしれないと感じています。

それが、その時代の社会が容認できる範囲のものだったのか、むしろ称賛するものだったのか…。
さらに、それを考える時点を、戦国時代に置くのか、現代の今に置くのかによっても、「裏切り」の見え方が違ってくるような気がします。

* * *

戦国時代であれば、各武将によって、「本能寺の変」のとらえ方がまったく違ったはずです。
そのとおり、「本能寺の変」の後の、多くの戦国武将は迷いに迷っていましたね。

秀吉は、とにかく、彼らを特定の方向に向けるのに、やっきになりました。
とはいえ、秀吉の行為は、彼にとって的確なものだったと思います。

光秀には、それができなかったような気がしますね。
金や地位、領地を、目の前にちらつかせただけでは、人の心は意外と動きませんね。
現代も同じだと思います。

「勝者だけが正義、敗者は裏切り者」というのは、表面づらの話しです。
せいぜい、「勝者は裏切り者とは、なかなか呼ばれない」程度のものかもしれません。

* * *

大河ドラマ「麒麟がくる」では、数えきれないほどの「裏切り」を見せつけられるのだと思います。
ドラマの第二回では、すでに光秀の葛藤(かっとう)が始まっていましたね。

「裏切り」という言葉は、それぞれの時代、それぞれの立場によって、意味が変わるといっていいのかもしれません。
時として、主君への「反逆」は、別の方向から見たら、世の中への「忠誠」なのかもしれませんね。

* * *

本コラムの「麒麟シリーズ」では、大河ドラマ「麒麟がくる」にそって、戦国時代の さまざまな裏切りの場面を考えていきたいと思っています。


◇大切なことは、さらりと…

コラム「麒麟(1)キリンがくるッ!」でも書きましたとおり、戦国時代は、日本史全体からみたら、そう遠くない時代なのですが、とにかく光秀に関する事柄は、不明な点が異常に多いのです。

当時の信用性の高い史料に、光秀の幼少期のことは残っていません。
後世の史料は、確証がなく、いくつもの説があります。

まずは、光秀の出自について…。
出身地は、室町時代の岐阜県か滋賀県?、1516年説、1528年説、1540年説などがあります。
1540年だとしたら、信長よりも年齢が下になります。

* * *

「麒麟がくる」の第二回の中で、帰蝶(きちょう / 後の濃姫)の夫である「土岐頼純(とき よりずみ)」の言葉で、非常に簡単ではありますが、重要な昔の歴史が語られました。

今回の大河ドラマは、歴史の重要な点を、台詞の中に、さりげなく盛り込んでくるのかもしれません。
過去の大河ドラマも、その年によっては、そうした大河も多くありました。
脚本家の歴史認識の違いかと思います。

今回の大河ドラマは、おそらく総回数がいつもより少ないかもしれません。
歴史の大切な内容が、さらりと通り過ぎていくのかもしれませんね。

さて、この土岐頼純の台詞を、もう少し古い時代も含めて、補足しながら書きたいと思います。
当時の美濃国の状況や歴史を、「さらり」よりは、もう少し深く書きたいと思っていますが、その前に、ちょっとだけ日本史のおさらいをしたいと思います。

「戦国時代」や「武士」のことを あまり知らないという方にも、わかりやすくなるように、かなりざっくりと書きますね。


◇源平の武士は、どこから来たの…

「武士」とは、その名のとおり、時と場合によっては、戦争を戦う兵士たちのことですね。
現代は武士ではなく、兵士と呼びます。

人が人間である限る、人間どうしのチカラによる戦いはなくなりません。
それは神話の時代からあります。

ただ、友だちどうしの殴りあいが起こったとしても、その人たちを「武士」とは呼びませんね。
日本の古い時代の「武士」とは、いわゆる戦争の専門職ともいえます。

普段、農家なのに戦争にかり出されても、彼らを武士とはいいません。
今でいえば、臨時のアルバイト。
戦闘要員の正社員クラスが、「武士」といっていいのかもしれませんね。

* * *

古い時代は、武士に分類される人たちには、一定程度の規定にもとづく区分けがあったと思います。
ですから、実際に戦わなくても、戦いたくなくても、武士は武士なのです。
その行動や、地位、家や一族という区分けだけではない「精神性」が、「武士」という言葉の中に込められているのは、そのためではないかと思っています。

そういう意味では、現代社会にも、「武士」や「侍」が たくさんいるのかもしれません。
「侍 Japan」は、最たるものですね。武力で戦うわけではありませんが、戦う集団です。

「下克上(げこくじょう)」とは、武士でなかった人たちが、武士になることをめざしたり、武士になったらなったで、さらに上の格の武士たちを、武力で乗り越えていくことです。

* * *

さて、ここからは、日本史の中で「源氏」と「平氏」という、二大武力勢力が登場してくる時代のお話しから、書いていきます。
美濃国の土岐氏を説明するため、そこから始めます。

794年、京都に「都(みやこ)」がおかれました。
子供の頃、「鳴くよ ウグイス、平安京」と覚えさせられましたね。

平安時代のはじまりです。桓武天皇でした。
空海や最澄が活躍した時期です。

1192年に、源頼朝が鎌倉幕府の征夷大将軍に任命されますが、そこまでが一応、平安時代という区切りです。
もちろん後世の勝手な区切りですが、約400年の長きにわたる時代です。
この400年のあいだに、社会における「武力」の意味が、大きく変化し、そのチカラが巨大化し、複雑化しました。

* * *

コラム「長者さまと成願寺」でも書きましたが、奈良時代から平安時代は、「源平藤橘(げんぺいとうきつ)」の時代といえるかもしれません。
「源平藤橘」とは、源氏、平氏、藤原氏、橘(たちばな)氏という、四つの一族のことです。
彼らが、政治の実権を、交互に、あるいは協力しながら、握っていたのです。
彼らの上に、天皇がいるのです。
これは戦国時代まで続きます。
ある意味、江戸時代、明治時代を越え、昭和時代まで…。

ちょっと簡単に、平安時代から順に、権力者を振り返ってみます。

藤原道長ほか藤原摂関家(藤原氏)。
各天皇~白川上皇の院政時代(源平の台頭)。
源平のライバル時代(源氏・平氏)。
平清盛(平氏)。
源頼朝(源氏)。
北条義時ほか北条氏(一応 平氏)。
足利尊氏から義昭まで(源氏)。
織田信長・豊臣秀吉(一応 平氏)。
徳川家康(一応 源氏)。

昔から、平氏と源氏は、ある頃から、交互の順番で、日本の覇権を握ってきましたので、戦国時代の武将たちも、その順序を気にすることになります。
源氏と平氏は、 「やられては、やりかえす」、その繰り返しの構図になります。

ある意味、日本史の中で、武力に頼らない平和な時代は、「平成」しかなかったということかもしれませんね。
今、私たちは、ささやかな幸運の瞬間に生きているのですね。

* * *

「藤原(ふじわら)」と「橘(たちばな)」の姓は、歴史が非常に古く、飛鳥時代や神話までさかのぼります。

「藤原(ふじわら)の何々」という武将、奥州藤原氏、上杉、直江、伊達、山内、比企、桐生、宇都宮、大友などが藤原氏の流れです。
藤原氏には、何といっても、五摂家(近衛・九条・二条・一条・鷹司)がありますね。
日本史の中の各時代の天皇家の近くには、いつもこの五摂家がいます。現代の皇室でも。

有名な武将の「楠木正成(くすのき まさしげ)」は、橘(たちばな)氏の流れです。
橘氏は、他の三氏よりは地味ですが…。


◇源氏と平氏

源氏とは、皇族の中から皇室を離れてその臣下になり、その時に、天皇からもらった姓のお名前のことです。
源氏には21の家系の流れがあります。

21の中の清和源氏とは、清和天皇から始まる源氏の流れのことです。
源頼朝、義経、足利、新田は、清和源氏の中の「河内源氏(かわちげんじ)」という流れになります。

南北朝時代の雄、足利尊氏(あしかが たかうじ)は、京都生まれです。
新田義貞(にった よしさだ)は、群馬県生まれです。

日本史の中で、ビッグネームの武将として登場してくる、「源の(みなもとの)何々」という武将や、武田、斯波、畠山、今川、細川、佐竹、小笠原、吉良、南部、山名、最上などの有名武将は、この河内源氏の流れです。
一応、徳川家も。

* * *

「平氏(へいし)」も、源氏と同様の意味の姓で、天皇から「姓」をもらいました。
源氏と同じような流れで、こちらは四つの流れがあります。
「平の(たいらいの)」で始まる歴史上の人物たちは、たいがい桓武天皇(かんむてんのう)からはじまる「桓武平氏」の流れです。

ちなみに「平家(へいけ)」とは、平氏の中の清盛中心の一族のことを意味します。
言葉の意味と使い方が、少し異なります。

「平の(たいらの)何々」という武将や、戦国時代の北条、種子島、対馬の宋などは平氏の流れです。
源平合戦で源氏に敗れたこともあり、それ以降、なかなか世に出てくるのが、むずかしい平氏たちでした。

一応、織田信長さんに言わせたら、織田家も平氏の流れ?だそうです。
もともとは、福井から名古屋に出てきた小さな土豪勢力といわれています。


◇源平の誕生

源氏と平氏は、皇族の中から皇室を離れてその臣下になり、その時に、天皇からもらった姓、「源」と「平」を得て、武力をもって朝廷を守る人たちの一族です。

800年代に桓武天皇の孫の代から、「源」と「平」の姓が生まれます。

「桓武(かんむ)天皇」の子の「嵯峨(さが)天皇」の系統が「源氏」です。

嵯峨天皇の弟に、「葛原親王(かずらわらしんのう)」という人物がいましたが、天皇にはなれませんでした。
彼の子孫がいわゆる「平氏」たちです。

平氏は「桓武平氏」、源氏は「嵯峨源氏」です。

* * *

嵯峨天皇の子の仁明天皇の子は「仁明源氏」、仁明天皇の子の光孝天皇の子は「光考源氏」、もうひとりの子である文徳天皇の子は「文徳源氏」です。
ようするに、天皇を継いだり、親王になれない天皇の子供たちは、源氏や平氏になっていくのです。
武芸に秀でているとかは関係なく、臣下の家系になっていきます。

嵯峨天皇の男子は23人いたそうですが、そのうち17人が嵯峨源氏となるのです。
ようするに、「源(みなもと)」さんが、一気にたくさん生まれたのです。

そんな中、前述の文徳天皇の子の「清和(せいわ)天皇」の子である陽成天皇の子は「陽成源氏」となります。
かたや、清和天皇の子の貞純親王の子は「清和源氏」となります。

* * *

ここで説明しますが、当時は皇位継承者が膨大な人数います。
兄の系統が絶えれば、すぐに弟の系統に皇位が継承されていきます。
それが絶えれば、その弟にいきます。
ですから、皇位が、孫の代から、別の系統の子の代に移ることはめずらしくありません。

多くの源氏や平氏たちが、まだ武力をそれほど持っていなかった時代は、それほど大規模な武力闘争は起きなかったのかもしれません。
文徳天皇からつづく系統には、文徳源氏、陽成源氏、清和源氏がいました。

文徳天皇の系統から、皇位が、弟の光孝天皇の系統に移ります。
この時に政治的に動いたのが、実は文徳天皇や清和天皇の系統の藤原経基(つねもと)です。
ちなみに清和天皇の母は、藤原氏の出身です。

この経基こそ、後に「清和源氏の祖」と呼ばれる「源経基(みなもとの つねもと)です。
この「清和源氏」こそ、後の源氏の大武力勢力となっていきます。

清和源氏の流れは、さらに多くの「〇〇源氏」たちを生み、さらに、戦国大名家を生んでいきます。
経基は、どのような戦略のもと、皇位を、ライバルともいえる光考天皇側に移したのでしょうか…。

* * *

皇位が移った光孝天皇の系統では、前述のとおり、光孝天皇の子が「光考源氏」、光孝天皇の子の宇多天皇の孫以降の代に、「宇多源氏」、「醍醐源氏」、「村上源氏」、「三条源氏」などが生まれてきます。

いろいろな「〇〇源氏」の名を書きましたが、文徳天皇の系統の「清和源氏」も、光孝天皇の系統の「宇多源氏」や「村上源氏」も、そして「嵯峨源氏」も、みな元をたどれば、嵯峨天皇にいきつきます。

* * *

一方、桓武天皇の子でありながら、天皇にはなれなかった「葛原親王(かずらわらしんのう)」〔嵯峨天皇の弟〕の系統は、彼の子の高棟や、孫の高望(たかもち)が、「平(たいら)」の姓を天皇からもらいます。
高望は「平 高望」となるのです。

高望の子孫が、関東にもやってきて、彼らが、後にいわゆる大武力勢力の「坂東平氏(ばんどうへいし)」となります。
この坂東平氏の子孫の中から、平将門、平忠常、平清盛らが生まれてきます。
ここでは平氏のことは割愛します。

* * *

ですから、源氏も平氏も、行きつくところ、桓武天皇までたどりつきますが、桓武天皇の子供の代で、真っ二つに分かれるのです。
源氏も、平氏も、一族の中から武力に秀でた武士がたくさん登場し始め、一族内の覇権争いが、日本のいたるところで勃発、いずれは、源氏と平氏の覇権争いへと進んでいくことになります。

とにかく、武力にものをいわせて、敵を叩きつぶさないと、生き残っていけない…。
戦国時代の下克上とそっくりな状況が、すでに平安時代に起きてくるのです。

天皇家周辺の争いが、関係する子孫の一族の人数が膨大に増えていくことで、日本中に拡大していく…、これが多くの武士団が生まれ、戦乱の世にむかっていくことになります。

藤原氏は、ある時点で、武力で生きていくことをあきらめ、政治や文化の部門に傾注し、朝廷に絶対的なチカラを持つことになります。

日本史のいつの時代も、皇位継承問題がおこりますが、その度に、政治部門の藤原氏と、武力部門の源氏と平氏が、入り乱れて、戦争が起きることになります。
いずれ、源平の武士たちは、軍事部門だけでなく、自分たちで政治の実権を握るようになり、藤原は政治の実権の座を離れ、朝廷の側近や文化面で権力者となっていきます。

室町時代まで、そうした構図が続きます。
天皇を中心とした、日本独特のこうした構造は、神話の時代から、ある意味、今でも続いているともいえますね。


◇河内源氏の台頭

さて、源氏には、清和源氏(清和天皇から)、嵯峨源氏(嵯峨天皇から)、宇多源氏(宇多天皇から)、村上源氏(村上天皇から)などの有名な源氏一族の流れがあると前述しました。
ようするに、どの天皇から枝分かれしていったかということです。

源氏は、源経基(みなもとの つねもと)が初代とよく語られますが、彼は清和天皇の孫で、皇室から離れた人物です。

「清和源氏」は、今の大阪北部や兵庫南部を拠点とし、「摂津源氏(せっつげんじ)」とも呼ばれます。
その後、源義家や頼朝、義経、足利、新田などを生む「河内源氏(かわちげんじ)」(大阪南部)、「大和源氏」(奈良)、「多田源氏」(摂津源氏本流)などに分かれていきます。

* * *

源氏は、初代 経基の後、子の満仲と続き、満仲の子である頼光が「摂津源氏」の祖となります。
もともと源氏は、藤原氏の家臣です。

そして、頼光の子の頼国の後、頼国の子である頼綱が「多田源氏(摂津国)」、頼国の子で、頼綱の弟の国房が「美濃国」の「美濃源氏(みのげんじ)」の祖となります。
満仲の次男の頼親は「大和源氏(奈良)」に、三男の頼信は「河内源氏(大阪南部)」になります。

「河内源氏」は、頼信、頼義、義家の「河内源氏三代」や、後に、頼朝、頼家、実朝の「鎌倉三代」、義仲(木曽)や、義経(奥州)などが誕生し、武力勢力「源氏」の中心となっていきます。

* * *

もともと「河内源氏」は、大阪南部だけでなく、北関東などの東国を所領としており、摂津源氏よりも格下にありましたが、その武力で成り上がります。
そして後に、甲斐源氏(山梨)、常陸源氏(茨城)、北関東の上野源氏(群馬)と下野源氏(栃木)などに枝分かれしていきます。

源氏どうしの争いは激しく、平氏と手を組む者まであらわれます。

足利尊氏(源尊氏)は、新田義貞を倒して、室町幕府をつくりますが、これは河内源氏どうしの戦いです。
河内源氏の流れの戦国大名は、鎌倉幕府の将軍家、足利、新田、武田、今川、吉良、細川、佐竹、南部…、膨大にあります。


◇土岐氏の誕生

さて「美濃源氏」は、前述のとおり、源国房がその祖です。

平安時代に、美濃国の「美濃源氏」は、国房・光国・光信・光長と続きますが、平安時代後期に、前述の「河内源氏」らも含めて、一族入り乱れて、大戦乱時代に入ります。
詳細は割愛します。

* * *

光長の子の光衡(みつひら)は、鎌倉幕府成立後に、幕府の有力な御家人となります。

ここで、名を「土岐光衡(とき みつひら)」とし、土岐氏の祖となります。
1190年代かと思われます。
平安時代から美濃国にいた「美濃源氏」は、「土岐」という姓になりました。

* * *

ちなみに、「尾張源氏」は、源経基の次男から始まる源氏です。
徳川幕府を支えた水野家は、この流れです。

「三河源氏」は、河内源氏の流れで、今川氏、吉良氏、一色氏などがいます。

「徳川家」の本姓は「松平」ですが、家康は、「松平氏は、上野源氏(こうずけげんじ / 群馬県)である新田氏の家臣の得川(えがわ)氏の末裔だ」と主張しますが、前例主義の朝廷に通じるわけもなく、そこで家康は、「得川氏は藤原氏の支流でもある」と主張し、松平家康から藤原家康になり、三河の国守になります。
ですが、藤原氏のままでは、幕府をつくれません。
幕府を開けるのは源氏だけです。
源氏の吉良氏のチカラを借りて、藤原氏から源氏に変更し、「源家康(徳川家康)」となります。

吉良氏とは、あの忠臣蔵の吉良のことです。
後のコラムで、松平家と吉良家の深い関係のことを書きます。

話しを戻しますが、ようするに、美濃国(岐阜県南部)や尾張国(愛知県)の地域には、美濃源氏(土岐氏)、尾張源氏、三河源氏がいたことになりますね。


◇織田氏と明智氏の不思議な宿命

尾張国では、室町時代になってから、やはり河内源氏の流れで、足利将軍の室町幕府の有力武家の「斯波(しば)氏」が台頭してきます。
織田氏は、斯波氏の家臣として、越前(福井)から尾張国にやってきます。

源氏だらけの、尾張の地域で、どこの源氏にも組せず、平氏の末裔だと信長が名乗ったのは、たいへんな戦略だと感じますね。
源氏の足利将軍家の後は、順番でいえば、平氏の自分たちが権力者になると言わんばかりです。

よくよく考えてみると、越前(福井)や尾張(愛知)で斯波氏が没落し、その家臣であった織田氏が入れ替わって成り上がる物語は、斎藤道三が土岐氏を利用し滅ぼすことで成り上がる物語と、そっくりです。

信長は、織田氏と、その主君の斯波氏の関係を、道三とその主君の土岐氏の関係になぞらえていたのかもしれません。
斎藤道三は、まさに信長自身がこれから歩む道を、自分に見せてくれていると感じたかもしれませんね。
そのことは、大河ドラマで、これから描かれていくのでしょう。
本コラムでも、おいおい書いていきます。

* * *

実は、道三と信長の、こうした不思議なつながりのあいだに、光秀がしっかり絡んでくるのです。
こんな武将は、光秀以外にはいません。
光秀ただひとりだと思います。
道三・信長・光秀の関係性の歴史的な意味を考えると、まさに、人の「宿命」とは、時に、おそろしさを感じます。

光秀のような存在と生涯、そして最期を、人間の誰が 芝居のシナリオに書けるでしょうか。
まさに「戦(いくさ)の神様」が、シナリオを書いているとしか思えません。

私には、信長と光秀の関係性を、下克上の話しとは到底 思えません。
まさに、人間の「宿命」のように感じてしまいます。

この宿命は、人のチカラで変えられるはずはありませんね。
そのことも、おいおい書きます。

* * *

ともあれ、美濃国の土岐氏は、正真正銘、ど真ん中の、由緒ある源氏の武家でした。
そして室町時代後期、美濃国(岐阜県南部)の隣の尾張国(愛知県)には、斯波氏の家臣だった織田氏がいたのです。

斯波氏の「越前国(福井県東部)」は、朝倉氏に「下克上」で奪われました。


◇源平から戦国時代までの流れ

前述の、天皇家、源氏、平氏、藤原氏の四つの家系の全体像を網羅した家系図があればいいのですが、なかなか見つけられません。
つくるのも、容易ではありません。
前述の源平の歴史の話しは、相当に理解しにくいものだと思います。

細かい部分を無視して、源平の流れと、そこから戦国時代までの流れを、下記にごく簡単にまとめてみました。

* * *

桓武天皇が、794年に京都に都を移し、天皇家周辺の家系がどんどん広がります。
天皇になれない者たちは、「源」や「平」の名前をもらって、皇族の中から皇室を離れ、天皇の臣下になっていきます。
ですから、家系をさかのぼると、みな、各天皇にたどりつきます。

桓武天皇の孫の代で、「嵯峨源氏(嵯峨天皇の子)」と「桓武平氏(葛原親王の子)」が、枝分かれします。
桓武平氏の子孫から、平将門や平清盛などが生まれます。

天皇の幾人かの代の後、清和天皇の孫の代に源経基が「清和源氏」、宇多天皇の孫の代に「宇多源氏」、村上天皇の孫の代に「村上源氏」が生まれ、枝分かれしていきます。
同じように、多くの「○○源氏」が枝分かれしていきます。

天皇家を中心に、源氏と平氏の家系がその傍らにあり、その三つの家系に、政治家の藤原氏の一族が深く絡んでくるという構図です。
母親が藤原摂関家ということも少なくありませんでした。

* * *

平氏や藤原氏のことは割愛し、源氏の中心となる「清和源氏」のことだけを書きます。

清和源氏の祖、源経基の子からは、「尾張源氏」や「信濃源氏」が枝分かれします。
後に「三河源氏」も枝分かれします。
源経基の孫からは、源頼信が「河内源氏」、源頼光が「摂津源氏(多田源氏)」として枝分かれします。

河内源氏からは、後に、「甲斐源氏」や「常陸源氏」、北関東勢の「上野(こうずけ)源氏〔後に新田義貞を生む〕」や「下野(しもつけ)源氏〔後に足利尊氏や足利将軍家を生む〕」が枝分かれし、河内源氏本流の「八幡太郎義家」の子孫から、木曽義仲や、源頼朝、源義経らの鎌倉勢が生まれてきます。

平安時代後期の平清盛の時代を経て、河内源氏本流による鎌倉時代、後醍醐天皇の時代を経て、河内源氏の下野源氏の室町時代がやって来るのです。
そして室町時代後期に、「〇〇源氏」から枝分かれしていった膨大な数の有名武家と、下克上で成り上がってきた無名の武家が、入り乱れて戦う戦国時代に突入するのです。

* * *

こうした歴史の中で、源経基の孫の源頼光「摂津源氏」から枝分かれするのが、頼光の孫の国房「美濃源氏」です。

国房から五代後の光衡(みつひら)は「土岐(とき)という名に改名し、「土岐光衡」(土岐氏の祖)となります。

「摂津源氏」の流れの「美濃源氏」の土岐光衡は、鎌倉の河内源氏の源頼朝を助けて、鎌倉幕府の有力御家人となるのです。

土岐氏は室町時代前期の頃まで、今の岐阜県南部(美濃)、愛知県(尾張)、三重県北部(伊勢)を勢力範囲とする一大武家となります。

政治の実権は、河内源氏勢や、執権の北条氏による鎌倉幕府から、北関東の河内源氏である足利将軍家による室町幕府に移り、足利氏に近い源氏勢力が勢力を増していきます。

その中に、斯波(しば)氏がおり、越前(福井県東部)などの北陸や、三河や信濃、そして尾張は斯波氏の勢力範囲となっていきます。
斯波氏も、もともと河内源氏の新田の一族で、今の岩手県から始まりますが、鎌倉幕府の御家人でもありました。
鎌倉幕府から足利氏の室町幕府へ、上手にシフトした斯波氏は、室町時代に大勢力となっていくのです。

シフトできなかった土岐氏は、濃尾平野でその勢力が衰え、美濃国あたりだけになっていくのです。
こうした、シフトできた武家と、上手にできなかった武家のチカラ関係が、後に「応仁の乱」の背景にもなっていきます。

* * *

チカラのシフトは、「下克上」というかたちになってもあらわれます。
斯波氏の家臣には朝倉氏や織田氏、土岐氏の家臣には斎藤氏、彼らが登場し下克上をおこし、その主君の座を奪い取るのです。
そんなことが日本中でおこります。

そして、土岐氏や斎藤氏の家臣であった明智光秀が、織田氏の家臣となり、その後、信長を討つのです。
ある意味、「本能寺の変」は、源平合戦の再来か、源氏の復権行動ともいえます。

* * *

武士や武家は、現代からは想像できないくらいの、あまりにも厳しい戦いの環境の中で、生きていたのだと想像します。
本来、武士とは「精神性」の生きものではありません。

まさに、戦って生き残ることが、生きる目的そのものだったのかもしれません。
ただ、「精神性」がなければ、武士どうしが団結できないのも事実だったと感じます。

ひとまず、まとめは以上です。
なんとなく、武士の歴史をイメージしていただけたでしょうか。
歴史はもともと、学問というよりも、「長編ドラマ」そのもののような気がしますね。


◇土岐明智氏

さて、土岐氏の祖である光衡から、光行、光定、頼貞と土岐家当主が続き、頼貞の九男である長山頼基の子の頼重が、土岐氏の一族の明智頼兼の婿養子となり、「土岐明智氏」の祖となります。

明智光秀は、頼重からおそらく八代後に、土岐明智氏の家に生まれた子孫である可能性が高いといわれています。

もし、これが事実であれば、どこの馬の骨ともわからない織田家と、明智家の家格は、歴史的には大きな差があるようにも感じます。
信長が、光秀を手元に置き続けた理由のひとつが、この家系にあったとも思ってしまいます。

* * *

家康も秀吉もそうであったように、信長も、源氏・平氏・藤原氏という、由緒ある名前との「つながり」の事実が欲しくて仕方なかったのかもしれませんね。
足利義満以降、武士の最高峰の征夷大将軍となって幕府を開けるのは、源氏長者だけです。
信長が、幕府の創設を、もし選択肢のひとつとして考えていたとしたら、光秀の家系は、どうしてもほしいですね。

光秀は、自身が、信長に そのためだけに利用されていると感じていたでしょうか…?

ともあれ、土岐氏と明智氏は、こうした深いつながりがあります。
ですから、土岐氏と明智氏の家紋はそっくりなのです。

「桔梗紋(ききょうもん)」です。


◇水色の桔梗

武家の家紋は、たいてい通常は黒色系や白色系などのシンプルで地味なものが多いですね。
せいぜい、軍旗でも、紺、緑、赤、茶、黄、紫、だいだい(オレンジ)などかと思います。

その中で、土岐氏は、なんと「水色」指定の桔梗紋なのです。
青ではありません。水色なのです。
水色を背景に白色の桔梗柄や、桔梗自体が水色をしているのです。

戦国時代、戦場では、いろいろな色の軍旗がはためいていたでしょう。
たしかに黄色や赤色は目立ちます。
ですが、カラフルな水色というのも、何か独特な存在感を感じますね。
そこには、水色の源氏がいるのです。

「麒麟がくる」でも水色をはじめ、やたらにカラフルな着物や軍旗が登場しますよね。
明智光秀も水色や薄緑色の着物を、よく着ています。

この大河ドラマの、カラフルな色彩のねらいは、この水色を強調することにあるのかもしれませんね。

* * *

「麒麟がくる」のおそらく最終回あたりでは、大勢力の軍が静かに京都の街に入り、朝焼けの中、本能寺の周囲を取り囲むように、この水色の軍旗が一斉に立ち上がるはずです。
おそらく…。
強烈な水色を見れば、そこに誰がいるのかは、本能寺の中からすぐにわかったでしょう。

「何、水色の桔梗に、まちがいないのか…」。

実は明智氏も、土岐氏と同じ、「水色桔梗」を家紋としているのです。

斎藤道三親子は、同じ一族なのに、家紋を変えてしまっていますが、なんとも土岐氏と明智氏は「水色桔梗」への深い愛着ですね。
それもそのはず、この「水色桔梗」は土岐氏の一族にとって、ぜったいに忘れてはいけないものなのです。

そもそも、戦国武将の家の家紋なのに、やさしい桔梗の花とは、いったいどうしてなのでしょうか…?



◇水色は、何の色

次のような話しが残っています。

前述の土岐氏の祖、土岐光衡が、戦(いくさ)の際に、兜(かぶと)の前立て部分に、水色の桔梗の花をさして戦ったところ、大勝利したということから、土岐氏の「水色桔梗」の家紋が生まれたというものです。

「桔梗」という花の名称は、「吉凶」からきているという説があります。
吉凶を占う際に、この桔梗の花を使っていたということもあったそうです。

もし、戦(いくさ)への道中、道端に咲く「吉凶」の花を、兜の前立てにさしたのであれば、それもありなんです。
でも、道端で拾ったのなら、紫色であるはずです。
色の薄い桔梗の花も、もちろんありますが、水色の桔梗とは、少し妙です。
私は、この「水色」には、きっと何か意味があると思っています。

* * *

ここからは、私の勝手な想像です。

聖徳太子の冠位十二階を思い出してみてください。
12色の色で、その地位をあらわしていますね。
現代の皇室行事も、色づかいには厳格です。

上位から順に、
(1)紫…大徳(だいとく)
(2)薄い紫…小徳(しょうとく)
(3)青…大仁(だいじん)
(4)薄い青…小仁(しょうじん)
(5)赤…大礼(だいれい)
(6)薄い赤…小礼(しょうれい)
(7)黄…大信(だいしん)
(8)薄い黄…小信(しょうしん)
(9)白…大義(だいぎ)
(10)薄い白…小義(しょうぎ)
(11)黒…大智(だいち)
(12)薄い黒…小智(しょうち)

ひょっとして、「水色」とは「薄い青」を意味しているということはないでしょうか…。
「青」の下の「薄い青」です。

紫は最高位の色です。
鎌倉時代に、最高位とは、天皇か、鎌倉幕府の将軍しかいません。

朝廷を守る武士である源氏の土岐氏だからといって、桔梗の花と同じ「紫色」を使えるはずはありません。
紫色のすぐ近くにいる水色の武士…。
少し考えすぎでしょうか…。

現代にありがちな、空や海などのイメージを水色に託すということはなかっただろうと思います。


◇オカトトキ

もうひとつ、土岐氏と桔梗の花を結び付ける話しを書きます。

「桔梗」の花は、別名として「岡止々支(オカトトキ)」ともいうそうです。

「岡」や「丘」は、両者とも小高い地形の場所を意味します。
「岡」のほうだけは、海に対して「陸地」を意味する場合もあります。
「支」は、たすけるとか、支えるという意味がありますね。

ですから、「岡止々支(オカトトキ)」とは、丘(岡)で支えるもの、陸上で支えるものというような意味あいにもとれます。
「止」の意味がよくわかりませんが、土や地盤を留め置くような意味あいなのでしょうか。
たしかに、桔梗の花は、道端の土手あたりによく咲いています。

一面 紫色に咲く桔梗は、まさに丘を支えているようにも感じます。
特定の陸地を支える武士団の姿に、見えないこともありません。

* * *

そうです。
皆さん、お察しのとおり、この「トトキ」こそ、土岐氏の「土岐(とき)」なのです。
だからこそ、桔梗の花なのです。

「土岐」の「岐」はまさに、「岐路(きろ)」の「岐」ですね。
そのとおり、美濃源氏である土岐氏は、清和源氏から枝分かれした源氏なのです。

源氏と、土岐と、桔梗と、オカトトキと、水色が、なんとなくつながったような気がします。
私の想像の部分もかなり入っていますが、なんとも素敵な「つながり」のように感じます。

* * *

いずれにしても、兜に桔梗の花をさして戦うなどという逸話は、なかなかのカッコよさです。
水色というのも、すがすがしい潔さをイメージしますね。

ひょっとしたら、NHKは、水色の似合う俳優を主役として探したのでしょうか?
長谷川博己さん…、水色が似合う、すがすがしさを感じますね。

実は、加藤清正も、坂本龍馬も、桔梗の家紋を使っています。
土岐氏や明智氏とつながっているともいわれています。
清正は、美濃国出身とも、尾張国出身とも、いわれています。

明智氏の桔梗紋は、水色のもののほか、水色を使わない「陰の桔梗」という、桔梗紋もあります。
土岐氏を陰で支える、桔梗の武士ということなのでしょうか。
武士たちは、いろいろな思いやメッセージを、家紋に込めていましたね。


◇桔梗に託す

前回コラムで、「徳川家康は明智の関係筋になぜか やさしい」と書きました。
おいおい書いていきますが、明智氏と徳川幕府との、おそろしいほどのつながりには、少し身震いします。

日光東照宮に、なぜ、葵の紋と一緒に、桔梗の模様があるのか?
個人的には、この桔梗が、土岐氏や明智氏を意味するものとは思えません。

* * *

織田信長は、7種類の家紋を使い分けました。
有名な「織田木瓜(おだもっこう)」は、あの食物の瓜(うり・きゅうり)の断面のように見えますが、本当は「五瓜(ごか)と五つ唐花(からはな)」の家紋です。
織田家オリジナルのデザインです。

信長は、平家の蝶の紋、「永楽通宝」の通貨の紋、「無」の文字の紋については、時と場所にあわせて使ったのだと思います。
さらに、後醍醐天皇が足利尊氏に与えたご存じ桐の紋(日本政府の紋)、皇室の菊の紋、足利将軍家の丸に二引き紋は、最高権威の象徴や見栄として、信長も使ったのかもしれません。

「織田木瓜」の家紋は、何かと時代劇ドラマに登場します。
もともと福井出身の織田氏ですので、福井の朝倉氏の「三盛り木瓜(もっこう)」の家紋を真似た形ではありますが、その中心部分は、朝倉氏とはちがい、桔梗の花のような5枚花弁です。
朝倉氏も、浅井氏も、家紋の中心部にあるのは桔梗ではなく、4枚花弁の唐花だと思います。

家紋の中の木瓜は、唐花と同様に、奈良時代あたりから伝わる、相当に歴史のある模様の一種ともいわれています。
「唐花」模様はもとは植物の花のことではなく、かつて中国から伝来し、藤原氏が多く使用した模様で、花に見立てれば、それは4枚の花弁が基本です。
土岐氏や明智氏、織田氏の5枚の花弁は、まるで桔梗の花のようです。

この木瓜は、瓜やきゅうりなどの食物の断面を図案化したようにも見えますが、日本の有名な神社の紋にも瓜が使われていたりします。
そうした神社の、大切な行事の期間は、瓜を食べてはいけないという慣習が今でもあったりしますね。

また、木瓜という植物は、いくつかの種類に分けられ、家紋の模様によく似た丸い形の美しい花が咲くものもあります。
家紋の木瓜の外周の模様は、そうした花の花弁からきているようにも感じます。
木瓜の花と、何か大切なものを組み合わせる…、それは断面のような面としての美しさをもつ…、それが木瓜家紋の紋様なのかもしれません。

ちなみに、織田家の子孫の家では、桔梗の花を飾ってはいけないという風習が残っているとも聞いたことがあります。
もちろん、「本能寺の変」以降です。

織田家の「織田木瓜」は、古来からの瓜と唐花、それに源氏の桔梗を、絶妙に混ぜ合わせて、源氏を強く連想させる紋様なのかもしれません。
織田氏は、平氏の蝶の家紋の使用とあわせて、両氏を強く意識していたようにも感じます。
信長にとっては、家紋は便利な道具であったのかもしれませんね。

* * *

現代の今でも、ひとりで幾つもの名前を自由に使い分けている人は多くいます。
代々の名跡でもなければ、基本的に、その人一代限りのお名前です。

ですが、家紋を幾つも使い分けるとは聞いたことがありません。

家宝のような一族の家紋を持つ光秀から見たら、信長の行為はどのように見えていたのでしょうか…。

外見や表面に一切とらわれず、周囲の目も無視して、徹底的に本質を追求するような信長タイプと、どのように接していったらいいのか、光秀は悩んだかもしれませんね。

現代の今でも、大上段から自論を振り下ろすような人には、結構、対応に困ったりしますね。
光秀のすぐ隣には、本当に要領のいい、秀吉もいました…。

とはいえ、織田家の7つのどの家紋よりも、信長の「天下布武」のあの印章を見たら、信長の怖い顔が、すぐに頭に浮かんできます。
わしの印は、家紋がわりじゃ!

* * *

いずれにしても、桔梗の花に似た家紋や紋様は、土岐氏一族だけでなく、他にも清和源氏はもちろん、日光東照宮や、織田信長などで見ることができます。
そうなると、これは土岐光衡が「桔梗」の最初ではないのかもしれません。

最初に、桔梗の花を兜にさした武将は、別にいたのかもしれませんね。

そして、桔梗の花は、源氏でもない、平氏でもない、土岐光衡のお話しでもない、現代人がまだ知らない、何か、武士にとって大切な意味があったのかもしれませんね。

どんなに周到に戦の準備をしようと、勝利を確信しようと、吉凶を「桔梗」にゆだねたくなる気持ちも、わからないこともありません。
とはいえ、どちらに転ぼうと、武士はいつも、「生」と「死」の狭間にいましたね。

今度、丘に咲く「桔梗」の花を見たら、思い出してみてください。
そこには、生と死の狭間を生き、何かを支える者たちがいたことを…。

* * *

コラム「麒麟(4)土岐のおいとま・蝶が帰る場所」につづく

 

2020.1.31 天乃みそ汁

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