JR外房線の本納駅の西に横たわる丘陵一帯が本納城の城域です。南麓に蓮福寺というお寺があって、そこから本納城の中心部分に至る登城路が設けられていて、綺麗に整備された主郭には容易に辿り着くことができます。

 

 

途中に180度折れ曲がる場所があって、削り残された岩盤が文字通り壁のように立ちはだかっています。

 

 

 

 

坂道の折り返し点がわかりますかね。

 

折り返し点がここ。岩が壁になっています。

 

臼杵城の「石壁」にも似たこの構造は「袋狭間(ふくろはぎ)」と呼ばれているようで、普通に見られる本納城の中では恐らく最大の見どころになっています。主郭に入るところもいい感じの枡形虎口になっているようで、断崖絶壁を特徴とする上総・安房のお城の中では技巧的な部分も垣間見ることができる、なかなか優れたお城です。
本納城には黒熊大膳亮景吉という城主が伝わります。黒熊大膳という武将は本納城の城主であったとの記述以外にネットで見かけることができない人物で、実在すら実証できないレベルのようですが、他にこれといった伝承もないようなのでひとまず信じることにしましょう。土気・東金の酒井氏に近い人物だったようですが、後北条氏と里見氏の勢力がそれぞれ拡大してくる中で「境目」としての酒井・黒熊氏の立場は微妙になり、後北条方に傾いて行った酒井氏と距離を置くようになった黒熊氏が酒井氏の襲撃を受けて城を失い、以後は酒井氏に属するお城として板倉氏などが在城したということです。黒熊氏が没落したのは国府台合戦(第二次)の頃のようですから、永禄7(1564)年前後とされています。本納城の築城は享禄2(1529)年(これも出典が不明瞭ですが)とのことなので、築城者も黒熊大膳だとしたら、永禄年間の没落時、黒熊大膳はもうおじいちゃんだったんでしょうね。16世紀の後半は室町幕府体制がいよいよ形骸化し、中央政府(幕府)の干渉を受けない地域主権型の個別勢力(いわゆる戦国大名)が急速に大型化してくる過程にありました。上総の地は南方の安房から里見氏が、北方からは後北条氏がひたひたとその影響力を強めてきていた時代で、旧来の地縁からすれば里見氏により近いところにいた酒井-黒熊氏が仮に後北条方に転じた際、地理的には土気、東金より南の(つまり安房に近い)本納は、里見氏の脅威をより強く受ける形となります。老境にさしかかった黒熊大膳にしてみれば、この年で境目の最前線に立たされるのはたまったものではなく、なんとかして酒井氏を里見方に留めたいと思っていたことでしょう。これを酒井氏側から見ると、そんなことならいっそのこと老いぼれの黒熊大膳を排斥して自らの基盤を固めておきたい・・・といったところでしょうか。かくして酒井氏と黒熊氏とは袂を分かち、本納城で一戦交えることになったとか、そんなストーリーがあったんじゃないでしょうかね。黒熊氏が本納城の主であり、かつ黒熊氏と酒井氏が本当に本納城で戦ったのであれば、ですが。

 

 

本納城の本丸は綺麗に整備されており、茂原の平野(盆地?)がよく見渡せます。かつて沼沢地で「藻原」と呼ばれていた茂原荘のどのあたりまでが本納城主の実効支配領域だったのかは把握できていませんが、この眺望と崖の多い地形は、要害を構えるにはもってこいの場所であったことでしょう。上総のお城は谷戸の居館を囲むような丘陵地を取り込んで占地されていることが多いように見受けられますが、本納城も蓮福寺を丘陵が取り囲んでいます。蓮福寺は黒熊氏が没落した後に酒井氏が黒熊氏の菩提を弔うために開基した寺と言われていますので、黒熊氏の居館は蓮福寺におかれていたんでしょう。蓮福寺と、そこから登れる主郭部分の他のエリアは例によって見学に適しているとは言い難いですが、近隣の丘陵全体にお城と識別できる遺構が残っているそうです。谷戸を取り巻く広大な城地。典型的な、上総のお城です。