尾張旭市という場所は、名古屋に本社がある会社に勤務している筆者にとってもなかなか訪ねる機会のない場所で、愛用中の「ニッポン城めぐり」アプリでも愛知県内にただ一ヶ所、ぽつんと残されていたのが新居城でした。新居城の城域には「旭城」と名付けられた四層の模擬天守もあるということで、いつかは行ってみたいと思いつつ・・・。

 


このたび、内貴さんのお誘いにより日進市・名東区のお城巡りを無事に終えた筆者は、まだ時間があるのを良いことに、念願の新居城へと足を運んでみることにしました。ここから先は日没との勝負ですが、そういう時に限って駐車場を間違えたりするんですよね。筆者ははるか遠くに車を置いて、走って旭城を目指した挙句、旭城のすぐ西側に大きな駐車場があるのを見つけて愕然となりました(更にそこから車に戻って、その駐車場までわざわざ車を運んできたんですが、それって明らかに無駄ですよねw)。でも予備知識なしで訪ねた筆者でもさすがに旭城が新居城ではないことくらいはわかります。旭城の裏山めがけて一目散。ありましたよー。この日一日かけてもほとんど見ることのなかった、土塁を伴う城跡が(笑)。

 


新居城はテニスコートと弓道場の建設に伴う掘削等によってその全貌がよくわからなくなってしまっているのですが、何十年か前にこの地を見つめてきたお城界の超大物(誰だよ)によれば、かつてはもう少しお城の姿を留めていて、現在でもそれとわかる堀切は二重堀切であった可能性もある、と記しています。結構作り込まれたお城だったことが、現在残る遺構からもうっすらと感じ取れますね。土塁もさることながら、このお城は切岸もいいんです。切岸だけでいつまでも見ていられそう・・・(笑)。

 


新居城は水野氏のお城です。すぐ近くに水野という地名を有するこの地域(春日井郡)は、複数の水野氏の発祥の地とも伝わります。水野氏には少なくとも二系統(桓武平氏と、源氏または藤原氏)あって、徳川家と姻戚関係を結んで大名家を輩出する水野家は源氏または藤原氏の系譜です。新居城にいたのは桓武平氏の水野氏で、その一族の水野良春なる人物が、南北朝時代に新たに開いた(新居)土地の中に築いたとされるのが新居城、ということになるそうです。この水野氏はあまり記録が残されておらず、どのあたりで領主層から没落していったのかがよくわからないのですが、現在も新居城の周辺には水野氏の末裔の方が複数いらっしゃるとのことですので、どこかの段階で帰農して、それとともに新居城は廃城になっていったのかもしれません。
水野氏からは、賤ヶ岳の戦いで柴田方として名を馳せた毛受(めんじゅ)茂左衛門・勝助(勝照)兄弟を輩出しています。毛受家は越前で1万石相当の領地を柴田勝家から拝領していたそうですが、柴田勝家の生誕地とされる下社城から新居城までは直線距離でわずか6.5kmですから、地縁的な繋がりの中で毛受家は柴田氏に従う形になっていたのかもしれませんね。これまで毛受家について考えたことはほとんどなかったのですが、名東区のお城をぐるっと回ってきたおかげで、柴田勝家と毛受家との繋がりはするっと頭に入ってきました。特定の地域のお城をくまなく回るって、つくづく大事なんですね。改めて思い知りました。