「猪子石」の地名は、名古屋に相当詳しい人でなければまず読めないと思います。たまたま筆者は名古屋に本社がある会社に二度に亘って勤務しておりますので、名古屋に住んだことがない割には名古屋の地名にも馴染みがあって、普通に覚えてしまいました。「いのこいし」または「いのこし」と読むこの地名は、イノシシに似た石があったからとも、亥の年に生まれた子供を祝う風習が根付いていたからとも言われているようですが、とにかく古くからの地名のようです。そんな猪子石の、周囲から一段高くなった場所に猪子石城があったといいます。江戸時代にも二重の堀が残っていたとする地誌類の記載がありますが、現在は全く痕跡を残していません。ただこの場所は明らかに周囲より一段高くて、月心寺の山門前は10段ちょっとの石段になっています。この高低差がお城には重要だったような気がします。
猪子石城には横地氏が在城していたそうです。猪子石の横地氏は尾張国植田(今の名古屋市天白区)にいた横地氏の一族だそうですが、全国の横地氏は概ね静岡県菊川市の横地城を本拠とする横地氏に繋がるとされます。「横地系図」には植田の横地氏が載っておらず、従って猪子石の横地氏も横地の横地家とを直接繋げる根拠はないのだそうですが、横地の横地氏が四散するきっかけとなった今川義忠の遠州侵攻時の横地氏当主は「秀国」で、猪子石城にいたとされる横地氏は「秀次」です。横地氏は必ずしも「秀」の字を通字としていたわけではありませんが、何らかの繋がりがあると見てよさそうですよね。ちなみに植田にいたのが秀次の兄・秀政というそうで、これまた「秀」の字が使われているんですね。静岡に生まれ育って、勝間田城と勝間田氏を大学の卒業論文に選んだ身としては、勝間田氏と運命を共にした横地氏への親近感はひとかたならぬものがあり、猪子石城で横地の文字を見た時には涙が溢れそうになりました。横地さん、こんなとこで苦労してたのね・・・って。
そんな苦労人の横地氏は、小牧・長久手の戦いの際にはそれこそ散々な目に遭っているようです。まず猪子石の横地秀次。羽柴方の池田恒興の下で道案内役を務めましたが、猪子石城は徳川方によって焼き討ちに遭い、秀次も敗走して美濃まで逃げたのだそうです。兄・秀政の子であった横地秀種・秀行の兄弟(この兄弟も「秀」ですね)は叔父とは袂を分かって織田・徳川方につきましたが、不幸にして二人とも戦死してしまったのだそうです。長久手の戦いは織田・徳川軍の勝利で間違いないのですが、別に勝った側にいれば確実に生命が保証されるわけではないという悲しき事例ですね。戦死した横地秀種らの亡骸は、ひとつの塚にまとめて葬られ、「横地塚」と呼ばれましたがいつのまにやら「地塚」に変化し、今では「痔塚」となって文字通り痔の神様になってしまったようです(今も神明社境内に祀られています)。日本人って、何でも都合よく神様にするんですよね・・・。