本郷城は丹羽氏が一時期本拠地としていたほどのお城で、戦後すぐの航空写真でもその痕跡が窺えるのですが、現在は近寄るのもままならない状態になっています。車を走らせる内貴さんが「ここです!」と示した地点で車の中から撮った写真を内貴さんにお見せしたところ、「よく撮れてます」とのことでしたので、ここで間違いないのでしょう(笑)。

 

よく撮れているそうです。つまりこれが限界・・・と。

 

遠目には「NTTドコモの鉄塔がある場所」ということで見つけやすい場所なのですが、現地に行くと散策できなさそうな雰囲気が一目でわかります。実は土塁の一部なりとも残っているのではないか、という推測も横に置いて、今はそっと鉄塔を見上げるだけに留めておくべきお城なのでしょう。
本郷城は折戸城(吹上城)に拠点を置いていた丹羽氏が築いた新拠点です。拠点となっていたのは文亀3(1503)年(丹羽氏員の時代)から天文7(1538)年頃(丹羽氏清の時代)までの35年ほどと言われていますが、天文5年頃に丹羽氏清が岩崎城を拠点と定めてからも本郷城は存続していたようです。岩崎城への移転は三河・尾張を繋ぐ街道を扼するという目的があったと思われ、見方を変えれば農地の生産力に依拠していた一介の国人領主が「街道を扼する=関銭を徴収し得る」存在へと昇華し、街道沿いに城下集落を形成し得るだけの勢力を蓄えた結果と見ることができます。筆者はここに「経済拠点=城下町から徴収し得る「銭」を稼得する場所」としての岩崎城と、「備蓄拠点=農地管理を行い年貢を徴収・保管する場所」としての本郷城の機能分化があるのではないかと見ているのですが、これを立証するにはもう少しいろんな検証が必要となります。ついでに言うと、天文20(1551)年には丹羽氏清・氏識父子と藤島城の丹羽氏秀との間で「横山の戦い」が勃発するのですが、藤島城の項で示した通り「岩崎城から藤島城が見えない」ことを利用して丹羽氏秀が軍勢を集めたという話が真実だとしても、本郷城からは藤島城は丸見えです。実際に丹羽氏清・氏識は氏秀の動きを察知して兵の移動を開始していますので、さてこの時に本郷城はどのようになっていたのでしょう。普通に考えたら存続していたような気がするのですが。
古い航空写真を見る限りでは本郷城の主郭は方形ですが、よーく見ると周辺にも堀が巡っていたような様子が見受けられます。本郷城はいわゆる単郭方形の館ではなかったのかもしれませんが、少なくとも主郭は方形です。問題にしたいのはその軸線で、これが藤島城(こちらも方形)の軸線とほぼ同一になっているように見受けられます。本郷城と藤島城それぞれの東側を南北に通る道路はいつの時代から存在したものかはわかりませんが、これも本郷城・藤島城と同じ軸線です、正南北からちょっと東に振れたこの軸線は、もしかしたら丹羽氏の時代に何らかの形で定められた軸線なのかもしれませんね。現状では何の痕跡も残さないと思われる本郷城ですが、航空写真一枚残っていることでこれだけのことが考えられます。いやー面白いですね。これだけでひとつの自由研究になりそうです。地元の小中学生のみなさん、研究してみませんか?(夏休み終わりの日に言うなって・・・)