岩崎城と言えば「ミスターこまなが」こと内貴健太さん(岩崎城歴史記念館学芸員)のホームグラウンドです。数年前に内貴さんにお目にかかった時はまだ著作の脱稿前でしたが、著作の「家康vs秀吉 小牧・長久手の戦いの城跡を歩く」(風媒社)は重版も決まり、内貴さんご自身も今後ますますのご活躍が期待されるところです。そんな内貴さんに誘われるという栄誉に浴し、鬼も笑う来年2025年の3月22日に二人でトークライブを行うことが内定しました。

 

この夏、ネタ合わせの意味合いも込めて筆者が岩崎城にお招き頂き、内貴さんのご案内のもとで日進市や名古屋市名東区のお城を巡るという貴重な機会を頂きましたので、ご厚意に感謝しつつ、通常の更新予定に割り込む形でご案内頂いたお城を皆様にご紹介していきたいと思います。まずは本拠地(?)の岩崎城から。

 


岩崎城自体は前回もご案内頂いていますので、今回はスルーとなるはずでした。

ところが岩崎城でちょっと小休止している間に、筆者の目はとある石碑に釘付けとなりました(ここはちょっと前にブログに書いたところ。以後はその続きです)。

 

ほらー。絶対庭園だよー。


この石碑、傍らの由来書きを見ると江戸時代(18世紀)にはそこに立っていた石であり、そこに近隣の住職が岩崎城で散っていった兵たちの霊を慰めるために碑文を刻んだのが今の石碑なのだとか。江戸時代からそこに立っていたという点で、筆者のアンテナにびびーん!と響くものがありました。
「これは、庭園の立石なのではないか?」
そういう目線で改めて石碑を見てみると、碑文が刻まれた石の他にもいくつかの石が並べられていて、これはいよいよ庭園なのではないかとの思いを強くしました。幸いなことに庭園の専門家との知己を得ていましたので、早速写真を送って見て頂いたところ、庭園の石と見ても問題なさそうなこと、石の「良い面」が同じ向きを向いていないので恐らくは移動がなされていること、等のコメントを頂きました。一番大きな石に碑文を刻んだ際に石を動かしたことは十分に考えられますので、このあたりに庭園があったということを否定する材料はなさそうに見受けられます。江戸時代にそこにある石が、いつからそこに置かれたのかと考えれば、それは丹羽氏が岩崎城に在城していた時期と考えるのが最も自然で、もしそうであれば岩崎城には貴重な庭園遺構が残されていることになります。
岩崎城歴史記念館の方のお話によれば、この石碑の周辺は発掘調査の対象エリアからも外れていたそうで、未調査なのだとか。岩崎城ではまだ主要な建物(居住空間)が解明されていないとも聞きますし、もしかしたら庭園周辺にこそそういった空間(会所みたいな建物)が存在しているのかもしれません。これは調査してみたいですよねー。予算着かないだろうけど(汗)。
今までこの石碑を積極的に「庭園遺構である」と評価した方もいらっしゃらないようなので、早い者勝ちでここに記しておきます(笑)。岩崎城には庭園があって、しかもその遺構は地上に露出しているのかもしれないのです。筆者はもうこれだけでわくわくが止まりません(笑)。