初めて宇佐山城を目指した時は、なんとなく山の中腹まで車で登れそうな錯覚を覚えていたため、どうやら山麓からずっと歩いて登らなければならないということがわかった瞬間に心が折れたものでしたが、身体を鍛えて(?)山城に慣れた今となってはどうということもない山に見えたので、壺笠山城、坂本城を経たその足で宇佐山城へと向かいました。

 

 

後で何人かの識者にお聞きしたところ、一日で壺笠山城と宇佐山城の両方に歩いて登る人はあまりいないそうなので、いつの間にやら筆者の脚力は人並みのそれを上回っていたようです。還暦がひたひたと迫りくる今日この頃ですが、身体というものは鍛えればある程度はなんとかなるもののようです。まだまだ頑張りますよ、はい。
宇佐山城は大津から京都を結ぶ交通路を抑える形で織田信長の命により森可成が築いたお城です。宇佐山城の大手道は織田のお城らしくまっすぐ登るルートが設けられたとも考えられているようですが、今はその道を辿ることができず、ハイキングコースみたいなものを登って行く形です。

 

 

宇佐八幡神社の脇に案内板が出ていて、案内板に従って行けばストレスなく宇佐山城に辿り着けます。登って行くと、頭上に石垣の姿が見えてきて、お城好きなら嫌でもテンションが上がります。この石垣、隅石の部分が崩れ落ちていて、宇佐山城の戦いの後に朝倉・浅井と織田との和議の状況として「宇佐山城の破却」が織り込まれていたことを示す、いわゆる「破城」の跡と見做すことができそうです。

 

 

隅部を欠いた石垣はむしろ荒々しさを増して見え、野趣溢れる石垣はまさに絶妙なフォトスポットです。惜しいな、と思うのは、宇佐山城の最大のフォトスポットが「最初」に現れてしまうことですが、これだけいい石垣が見られるんですから、そう思うのは贅沢というものでしょう。
宇佐山城は、先に述べた通り、織田信長が近江と京との交通を制限するために設けたお城です。信長が畿内に築いた最も早い段階のお城ということでも貴重な存在ですが、それだけに朝倉・浅井連合軍としてもどうしても抜いておかなければならない重要ポイントとなりました。宇佐山城が出来上がったと思われる元亀元年に早速「宇佐山城の戦い」が勃発します。朝倉・浅井の軍勢を目にした森可成は宇佐山城を降りて城下で迎撃し、森可成自身を含む多くの犠牲を払った激しい戦いでしたが、即座に京に戻った信長によって宇佐山城自体は落城を免れ、織田と朝倉・浅井連合軍は大津市内で睨み合ったまま膠着します。宇佐山城は信長の狙い通り、朝倉・浅井が京に乱入することを見事に防いだわけですね。そして和議の後、宇佐山城はその役割を終えたものと考えられています。なんと短命のお城でしょう。
宇佐山城の発掘調査では瓦が出土しており、一説には曲輪面に建物が密集した(もしかしたら曲輪をはみ出していた)とも推定されています。石垣の上に瓦葺の建物を擁する、いわゆる織豊系城郭の先駆的な姿がそこにあったということでしょう。まだ安土城もなかった時代のこと、宇佐山城の姿は十分に当時の人々の度肝を抜くものだったのではないでしょうか。そんな歴史を知ってか知らずか、現在の宇佐山城は手頃なハイキングコースとして多くの人々を楽しませています。

 


先に石垣だけをご紹介した宇佐山城ですが、山上の曲輪群は通信設備などに占有されつつも、よくその遺構を残しています。堀切や土橋も十分に絵になりますし、「宇佐山テラス」と名付けられた広い曲輪も眺望抜群です。

 

 

宇佐山城の戦いという大きな戦いを経ているお城ではありますが、今の姿を見ているとやるべきことをやりとげて、清々しく眠っているように見えますね。爽やかな風が吹き抜ける、よいお城でした。