太田金山城は新田神社となっている実城周辺を中心として、四方の尾根から南側に並立する山塊(八王子砦)にまで遺構を張り巡らせた巨大な山城です。観光ルートとして普通に訪れるのは山上駐車場のある西城地区から実城までのエリアなのですが、実城の北斜面に展開する北城にもいい感じの虎口が残されていたりして、「関東には珍しい石垣の城」という点ばかりを意識して訪ねて行くと、意外なくらいに土の城の部分も多いので、逆な意味でかついい意味で裏切られます。行くたびに奥深さを感じるお城ですね。

 

 

今回は、これまたあまりメジャーではない、見附出丸をご紹介します。場所は西城の駐車場から実城とは反対側に行ったところなので、もうそれだけでマイナー感満載の場所(笑)。でもしっかり整備されていますし、かなり興味深い遺構がありますので、ちょっと足を伸ばして見て頂きたい場所です。

見附出丸の正面には堀が設けられています。尾根を完全に断ち切っていないので横堀という評価になりますが、直進性を妨げる役割を担っているという点では堀切に近そうです。この堀切と、堀切に附属する土塁を断ち切る形で現在の遊歩道が設けられているのですが、この遊歩道がいい感じに折れ曲がっているので、あたかも食い違い虎口のように見えるからやっかいです。

 

 

案内板をきちんと読めばこれが後世の通路であることが理解できますが、遊歩道がこんなにも本来の城道を踏襲しないのだということを、他のお城を見る際にもよく考えなければいけませんね。実に考えさせられる遊歩道です。

 

 

実際の城道は、通行を遮る形で掘り込まれた横堀を大きく迂回し、堀が切れたところから180度反転して見附出丸へと入るルートが取られていました。これは発掘によって明らかになっていて、現地でも案内板が一所懸命その事実を伝えようとしてくれていますので、現地の地形とじっと見比べながら、よーく検証して頂ければと思います。

 

 

筆者も理解するまで15分くらいの時間を要しましたが、理解が進んでくると、見附出丸に出入りするための門がどこにどういう向きで立っていたのかが急に見えてくるはずです。見えた方はもう本格的な「城の人」ですね。15分以内で解読し、小城越えを目指して頂ければと思います(笑)。
ところで太田金山城、石垣で有名になったお城なのですが、この石垣がいつの時代のものであるかについては未だ諸説あるようです。筆者は後北条時代だと信じていたのですが、もしかしたら小田原の役の後、という見解も成り立つようです。実際に実城の切岸に残る石垣の積み方は織豊期と言った方がしっくりくるような感があり、石垣の全てが後北条氏時代のものであるとする考え方にもちょっと無理があるような気もしてきました。

 

 

このあたりは上州館林に入った榊原氏の影響下にあって、同じ上州の井伊氏の影響下にあった箕輪城などには井伊氏による石垣構築が確かめられていますので、太田金山城にももしかしたら・・・の可能性がある、ということですね。石垣の積み方が明瞭に編年化されていない現在にあっては確かめようもないお話ですが、筆者は次第次第に「後北条氏のその後」による石垣構築があった可能性について考えたくなってきています。