東西に二つの三重櫓が並ぶ明石城。複数の三重櫓が残るお城は明石城の他には弘前城くらいしかなく(姫路城には三重の「小天守」が三基ありますけど)、真っ白な現存三重櫓を二つまとめて視界に収めることができるお城となると明石城が唯一の存在となります。しかも駅近物件なので、明石駅のホームからもしっかり眺めることが出来るんですね。

 

 

一時は明石公園内の木が大きくなり過ぎてこの独特の景観も拝みにくくなっていましたが、近年伐採が進んだことで、かつての景観が蘇りました。左右対称感が強い二つの櫓、実は最上階の棟が90度異なっているので、片方が前向き、片方が横向きとなっています(どちらを前向きというかはともかくとして)。
この明石城、江戸時代になってから新たに設けられたお城という意味では、福山城とも共通しています。福山城が水野勝成なら、明石城は小笠原忠真。忠真の母は登久姫といい、徳川家康の長男であった信康の長女でした。信康の妻(登久姫の母)は織田信長の娘・五徳ですから、忠真は徳川家康と織田信長の孫ということになります。その忠真の妻となったのが亀姫で、こちらは本多忠政と熊姫との間に生まれた娘でした。熊姫は信康の次女ですから、亀姫も徳川家康と織田信長の孫です。いとこ同士の結婚だったわけですね。本多忠政の父は本多忠勝ですから、亀姫は本多忠勝の孫でもあるんですね。えーとえーと・・・つまり小笠原家というのはそういう家で、福山城を築いた水野勝成(徳川家康のいとこ)に勝るとも劣らぬ血縁を有している家だということです。

 

 

大坂の陣が終わった元和の時代に山陽道に築かれた二つのお城、福山城と明石城には「山陽道に嵌め込まれた純粋な徳川譜代の城」という共通の目的がありました。そして伏見城の遺材が用いられたという点でも共通しています。福山城の伏見櫓の建材は本当に伏見城から運ばれたものであることが確かめられていますが、明石城の坤櫓(向かって左側の櫓)も伏見城からの移築建材が用いられていると伝わります。

 

 

この二城、南面は実に立派に築かれていますが、縄張図で見ると北面がぼんやりとしている(南面の水堀がそのまま北面まで繋がっているわけではない)点でも共通しています。福山城では実際に北面が弱点と認識されており、だからこそ天守の北面に鉄板が貼られたり、弱点を補う工夫がなされています。では明石城はどうなのかというと、実は明石城の場合には北面に相当な高低差があるため、必ずしも弱点とは言えないようです。筆者も北面まで初めて回ってみましたが、がっちりした石垣が北面まできっちりと積まれていて油断はありません。

 

 

江戸時代のお城とあって縄張りはシンプルですが、逆に言えば無駄のない強さを感じます。最近になってどこかのお城の専門家が地元の講演会で「明石城は前頭三枚目の城である」と称して物議を醸した?そうですが、横綱・大関・関脇をそれぞれ2~4人として全部で10人くらいがいるとすると、前頭三枚目は上から15番目くらいの位置づけとなります。別格の江戸城に三大名城クラスの姫路城、熊本城、大坂城、名古屋城あたりを横綱・大関として、広島城、岡山城、福山城、福岡城、小田原城、会津若松城くらいが大関・関脇だとすると、前頭筆頭から三枚目あたりには金沢城、和歌山城、松山城、彦根城、島原城、それに明石城あたりが入るのでしょう。まだ大事なお城をどこか忘れている可能性はありますが、冷静に考えると明石城の「前頭三枚目」は妥当な評価なんじゃないかな、と思ってしまいました。

 

 

なお、ここではお城を主に規模感で評価していますので、現存建造物の有無や国宝であるか否か等の要素は加味していません。そういえば同じ専門家の方が松本城を「大したことはない」として同じく物議を醸しているようですが、筆者が何となく列挙した中でも、ここまでに松本城は入ってきません。評価の基軸がどこにあるのかといった共通理解がなければ、これは確かに物議を醸しそうですね(笑)。追い打ちをかけるようですが、「城びと」アンケートによる「好きなお城ランキング」では、明石城は上位30位にも入っていません。この専門家さん、極めて冷静に客観的に明石城を評価し、むしろ褒めていたような気がするのですが、そんなことを言うとまた物議を醸してしまうでしょうか・・・。