JR神戸線の高架が真横を通る花隈の地に、かつては大きなお城がありました。

 

 

現在「花隈公園」となっている場所は城内の一部ですが、この公園がそのまま本丸だったというような単純なものではなく、かつての本丸は花隈公園の4倍くらいの大きさがあったようで、公園の西北に位置する福徳寺の門前には「花隈城天主閣之跡」の石碑が立てられています。古図で見ても天守は本丸の西北隅にあったようなので、この石碑の付近に天守があったと見てよさそうな感じです。花隈城は、東西700m、南北300mほどの東西に長い長方形の敷地に築かれた、壮麗かつ雄大なお城だったと推察されています。通説では、このお城を築いたのは荒木村重ということになっていますが、和田惟政であったとの説も一部にあります。ただお城が存続した時期の大半を荒木村重の持ち城として過ごしたことと、織田信長に叛旗を翻した荒木村重が最後の抵抗を試みたお城であることとで、花隈城=荒木村重との印象が広く一般に知れ渡ることとなりました。

 

 


花隈公園は頑丈な石垣で固められています。さすがにこの石垣は当時のものではないのですが、実際の花隈城にも穴太衆が動員されたとの話もあるようですから、かなりしっかりした石垣が築かれていた可能性があります。ちなみに花隈城の石垣の石を用いて新たに築かれたのが兵庫城なのだとか。
花隈はかつて花熊とも鼻熊とも書かれたものがあるそうです。鼻も熊も要するに「先端」を示す言葉で、現在の花隈公園を見てもJRの線路(の高架の基礎)あたりから見るとそれなりの標高差が見て取れます。台地の先端に築かれた「崖端城」の様相を呈したお城であったことが容易に推察できますね。

 

 

花隈公園内には池田家の子孫の揮毫による城址碑もあります。荒木村重の花隈城に何でまた池田氏が、と思うかもしれませんが、花隈城の荒木氏を最後まで攻め抜いたのは同じ摂津の池田氏でした。池田勝入と、その息子たちの元助、輝政らが揃い踏みしての戦いは、世に「花隈城の戦い」として語り継がれるものとなりました。池田家はこの功で花隈城を拝領し、すぐに兵庫城の築城に着手します。花隈城が築かれたのが永禄10(1567)年より後のことで、花隈城の戦いが天正6(1578)年のこと。花隈城は歴史の中に大きくその名を残しながら、わずか10年ほどで姿を消した、実に短命なお城だったということになりますね。