朝一番で塚崎城を訪ねようと張り切って車を走らせたら、朝一番の深い霧(笑)。

 

 

住宅地の一番奥の、切岸みたいになった坂の上の、曲輪みたいになった平場の奥の、霧の向こうに、塚崎城の石碑がぽつんとひとつ。幻想的というより幻惑的な風景でした。

 

 

霧が深すぎてなんだか現実世界ではないような。ちなみに切岸みたいな坂も、曲輪みたいになった平場もお城の遺構ではありません。お城としての塚崎城は武雄高校の造成によって失われたもののようです。現在は「石門」と呼ばれる石垣作りの門が石碑から300mくらい離れたところに残されています。細かく場所を文字化しておくと、武雄高校の裏側(武雄高校から行くことはできません)にある小高い住宅地の一番奥にある小公園(階段を登ります)に石碑があり、石門は武雄川沿いの深遠寺というお寺とデイサービス「ふれあい」との間に残されています。どちらも周辺環境とは無関係に「ぽつねん」と存在していますので、何となーく見学しにくい雰囲気が漂っています(笑)。

 


塚崎城の歴史は古く、後藤氏が塚崎に入った12世紀以来の居館とも言われます。後藤氏の祖先は藤原利仁にまで遡るのだとか。日本史というより古典で学ぶ「芋粥」の主人公として描かれた「利仁将軍」その人ですね。後藤氏は代々塚崎を拠点とし、戦国時代に至るまで家名を保ちました。しかし結構養子縁組が多かった家のようで、16代目後藤正明の実子・職明が17代目になったあと、渋江家から養子を迎えて18代目・純明となり、この純明が養子に迎えたのが19代目・貴明でした。この貴明は三城城(長崎県)の大村純前の実子でしたが庶子で、純前が有馬家から養子を迎えて跡を継がせた(これが大村純忠です)ため、大村家から後藤家に養子に出されたそうです。そのため貴明は生涯大村家と有馬家を恨み続けていたようで、龍造寺氏と組んで大村家と度々争っています。その結果、今度は龍造寺氏から養子を迎えることとなって、後藤家は20代目・家信へと継がれていきます。ややこしいのは貴明にも実子(晴明)がいたことで、この実子は逆に龍造寺氏に養子に入って龍造寺家均を名乗ることになるのでややこしいのです。更にこの家均の孫が佐賀鍋島氏筆頭家老の多久家を継ぐことになるのですから、もう混乱の極みです(笑)。それはさておき後藤家は知らず知らず龍造寺氏ひいては鍋島氏に取り込まれる形となり、武雄鍋島氏として代々相伝える形となりました。この間、一瞬だけ住吉城に本拠が移ったこともありますが、結局塚崎城が本拠となって、そのまま明治まで続いています。通算してみると、後藤家による武雄の支配は実に700年に及ぶことになり、そのほとんどを塚崎城で過ごしたことになるようです。すごいぞ塚崎城。ほぼ跡形もなくなってしまったけれども・・・。