三瀬(みつせ)は2005年まで行政区分上は「村」でした。長く三瀬村として親しまれたその呼び名を残すため、佐賀市と合併した後も「佐賀市三瀬村」を正式地名としています。「村」という名の「町」を作ったんですね。詳しくは調べていませんが、「市」になっても「村」の名を残した極めて珍しい事例なのではないかと思います。そんな三瀬村の三瀬にあるのが三瀬城。三瀬氏がいたこともあるお城ですが、主に居住していたのは神代氏という一族でした。

 

 

「神代(こうじろ)」という地名と城名が長崎県の雲仙市にもありますが、こちらの「神代」は「くましろ」と呼びます。古くは熊代氏とも表記していたともいう神代氏は武内宿禰あるいは物部氏を祖先に持つ高良神社の大宮司の出とされ、武芸に秀でた神代勝利が三瀬氏に請われて山内(佐賀県北部の山間地域の総称)の取り纏め役となりました。いわゆる一揆の首領と考えればわかりやすいですかね。何しろ豪勇にして豪放だったようで、台頭著しい龍造寺隆信に対しても一歩も引かずに戦い抜き、ついには長男・長良の娘と龍造寺氏との縁組を前提に和睦に至ったといいますから、いやはやそれは強かったのでしょう。その後、長良の実子(男子)はみな早世してしまったので、小河信俊という武将の息子(家良)を養子に迎えます。この小河信俊がまた鍋島直茂の実弟だったそうですから凄い人を養子に迎えていますよね。そして家良の系譜は後に「川久保鍋島家」として佐賀藩鍋島家の一門衆に名を連ねることとなっていきます。

 


三瀬城は、福岡と佐賀とを結ぶ国道263号線の三瀬トンネルの東にあります。三瀬トンネルの南側から旧国道に入って北上すると、ほどなくして三瀬城の案内標識が出てきます。そこを右折すると大きな専用駐車場があって、三瀬城はそこから「777mじゃ」という看板に導かれて山へと入ることになります。山道の777mは決して短くないのですが、中腹まで登ってきているという安心感があって、なんとなくすぐにでも三瀬城に到達できるのではないかと安易に考えてしまうのですが、これがそんなに甘くなく(笑)。堀底通路みたいな道をほぼ直登で登ってみたり、一騎駆けの長い土塁みたいな道を登ってみたり、とにかく結構あるいた先に、漸くお城らしいエリアが現れます。

 

二つの曲輪の間はご覧の高低差。左に長塁がつく。

 

お城は大きく二つの曲輪に分かれていて、縄張図で見ると二つの曲輪が南北に並んでいるように見えますが、この高低差がまた結構ありまして(笑)。この高低差を繋ぐエリアは石積みを伴う長塁で護られていて、二つの曲輪を有機的に繋ごうとした意図がよくわかります。漸くにして辿り着く主郭はこの地域では他にあまり見ないような分厚い土塁に囲まれていて、土塁の内側(主郭側)には丁寧な石積みが施されています。

 

 

郭の外側ではなく内側に設けられた石積みの機能がよく話題に上るのですが、実際に居住することを考えてみると、城外側にはいくら土が流れても構わない(生活への支障がない)一方で、内側には恐らく居住施設があるので土が流れてくるとはなはだ不都合だったので、土留めのために内側にだけ石積みが施されたと考えることができます。つまりこのお城の主郭にはかなりしっかりした居住施設があって、日常生活も営まれていたことが推察できるわけですよね。全体にシンプルな作りではありますが、重厚な土塁と丁寧な石積みによって、このお城の景観は近隣の他の城とは全く似ていない、独自の進化を遂げたお城のように見えてきます。武芸に秀で、龍造寺勢にも一歩も引けを取らなかったという神代勝利の神通力が、この堅固なお城の隅々にまでみなぎっているようにも感じられました。