福岡市早良区曲渕は、その名の通り室見川がぐにゃりと曲がった地形となっています。この曲渕に城を築いた曲渕氏は、地元の伝承によれば一介の鍬作り(つまり鍛冶屋)から身を興して近隣を支配する武将にまで登り詰めた曲渕河内守氏房なる人物を祖とし、息子の信助の時にはもう豊臣秀吉の九州仕置に巻き込まれ、主筋の原田氏もろともに取り潰され、没落したのだそうです。元の鍛冶屋さんに戻ったのであればいわゆる元の木阿弥なわけですけれども、この伝承自体がどうなんでしょうね。

 

 

曲渕氏房は原田氏に通じ、原田氏は龍造寺氏の調略に応じて大友方を攻撃する際の先鋒を受け持つこととなりました。どこに向かったかと言うとこれが安楽平城。先日ご紹介した安楽平城督の小田部氏を攻めるための道案内を曲渕氏が買って出たと言われています。曲渕城から安楽平城までは直線距離で5km弱。まあ、目と鼻の先ですね。原田氏について龍造寺氏方についた以上、曲渕が龍造寺方の最前線へと躍り出てしまったわけです。こういう巡り合わせっていうのは、運でしかないんですよね、きっと。「境目」とか「先鋒」とかは犠牲も大きいので誰もが嫌がるものだと思うのですが。

 


曲渕城のある城山には、山神社が鎮座しています。山神社はもともと湧水点のどこかにあったそうですが、曲渕ダムの築造時に水没するということでこの地に移されたのだそうです。曲渕ダムの歴史がまたものすごく、大正7年着工、大正12年の完成なのだそうで、福岡における上水道専用ダムの第一号だとか。これもまたひとつの文化的遺産ですよね。

 


 

お城へは山神社の長い長い石段をてくてく登ることになります。登り詰めて一息つくと、右側に更なる石段が伸びていて思わず息を飲みますが(笑)、登ってしまえばそこが主郭です。主郭背後には土塁があって、その先はどどーん!と堀切が掘り込まれています。覗き込むだけで「あーこりゃ降りなくていいわ」と思わされる規模の堀切で、尾根続きはこの堀切によって完全に分断されている感じなのだろうと思います。石段のある側の斜面も急ですし、攻めにくそうなお城ですね。鍛冶屋さんから戦国武将に成り上がった曲渕さん、相当なツワモノだったのだろうと思います。