安楽平(荒平)城は、南麓からまっすぐに車道がついていて中腹まで車で登れます。なので比較的楽に登れるんだろうなと思っていたら、そこからの山道も結構なものでした(笑)。ハイカーさんとも3、4人すれ違いましたので、この山はハイキングコースとしてもメジャーな方なんだな、ということを現地で初めて知りました。後日この話をfacebookに書き込んだら、大学の同級生でこちらの方のご出身の方が、「よく登ってました。懐かしいです」とのコメントを寄せて下さいました。

 


安楽平城は、「安楽平城衆」としてこの地域の軍勢を纏める役割を担っていた拠点城郭です。最初に現れるのが大内氏に仕えた飯田幸松丸がこの地域を任されたと思しき文書で、寛正6(1465)年の文書ですからまだ応仁の乱も始まっていない頃の話です。この頃から大内氏による早良郡代=安楽城督の職制が機能し、大村氏等がこの任に当たっていたことが知られています。大内氏の後でこの地域を広域支配したのが大友氏。大友氏もまた安楽城督を設置し、家臣の小田部氏がその任につきました。小田部鎮元の時に大友氏が島津氏に大敗を喫し(天正6(1578)年、耳川の戦い)、これをきっかけとして大友氏の支配領域が島津氏と龍造寺氏という二大勢力に蚕食され始めます。安楽平城は対龍造寺氏の最前線に立つこととなり、龍造寺氏の猛攻の前に小田部鎮元・九郎父子は討死(自刃?)します。ちなみに鎮元自刃の地と伝わる場所が南麓の登城ルート(車道)沿いにあって、苔むしたいい感じの供養塔を拝むことができます。

 

 

耳川の戦いの翌年のことでしたが、安楽平城自体は鎮元の次男・統房が頑張って引き続き持ちこたえ、安楽城がついに落城の時を迎えたのは更にその翌年の天正8年のことでした。小田部鎮元の「鎮」は大友義鎮(宗麟)から、統房の「統」は大友義統から賜ったものでしょうから、この親子が過ごした時代感もわかりますね。小田部氏はこれで終わりかというとそんなことはなく、統房は実は兵糧を使い果たしたことで大友氏の了解を取り付けて城督を交代してもらっており、安楽平城が落城した時には既に安楽平城を離れていました。その後の統房は立花道雪・宗茂に仕え、立花宗茂が関ヶ原後に改易となると代わって筑後柳川に入った田中吉政に仕え、田中氏が無嗣断絶となると柳川に返り咲いた立花宗茂に再び仕えています。統房の死去年は元和9(1623)年といいますから、戦国時代の真っ只中をまっすぐに駆け抜けた人生だったと言えそうです。小田部氏はその後も柳川藩の重臣として代々立花家に仕えていきました。

 

 

そんなわけで安楽平城は大内・大友両氏によって城督が置かれたほどの要衝でしたから、入念な城作りがなされたものと思われます。急傾斜のハイキングコースをひたすら登って行くと本丸へと辿り着きますが、本丸自体が平坦面に加工されているということを除けばそれほどの普請がなされているようには見えません。

 

 

 

ところが、本丸の周辺にある二の丸や三の丸(いずれも現地呼称)に足を運ぶと、その切岸の多くは石積みによって守られており、曲輪間の鞍部にも石積みが施された長塁を備えていた形跡が認められます。地形的な制約を受ける山の上で、本丸~三の丸エリアと、少し離れた小ピーク上にある二の丸とを有機的に連携させようとしていた痕跡でしょうか。本丸からは瓦が見つかっているようでもあり、かなり本格的な城郭が構築されていたことでしょう。

 

 

山上まで登られたら、危険のない程度にぜひ周辺を広めに散策してみてください。まだ誰も公開していない石積み等も見つかるかもしれませんよ。