東泉坊別当屋敷と日吉浅間神社があった場所にかつて善徳寺城(善得寺城、とも書きます)があったとされ、お城めぐりアプリ「ニッポン城めぐり」でも善徳寺城のリア攻めスポットが東泉坊別当屋敷の東側に設けられています。
かつて善徳寺城のものとされたこともある石垣
その場所にはまるで枡形門を思わせるような石垣があって、これこそが善徳寺城であり、甲相駿三国軍事同盟が結ばれたいわゆる「善徳寺の会盟」の舞台であると評価されていた時代もありました。
でもまあしかし、まず冷静に眺めてみるとこの石垣はどう見ても戦国時代のものではないですよね。善徳寺の会盟(武田信玄と今川義元と北条氏康が揃って署名した)みたいな会合自体が存在しなかったとするのが現在の定説となり、ついには善徳寺城そのものの存在にも疑問符がつけられる事態に至っています。筆者の手元の資料でも昭和50年代に出された「静岡県の中世城館跡」では善徳寺城がこの場所で掲載されているのに対し、静岡古城研究会による「縄張図集成」では違う場所(石垣のある場所から北東に800mほど離れた善徳寺公園)を推定地としています。そもそも日吉浅間神社のところには東泉坊別当がいたわけですし、善徳寺公園のところは少なくとも善徳寺というお寺があった場所で、このお寺で修行したとされる太原崇孚雪斎の墓も残されています。可能性としてはこちらの方が高そうですよね。善徳寺の会盟はともかくとして善徳寺城というお城が存在したことは事実のようですが、どこにどんなお城として存在していたのかは今となっては知る術もありません。