五龍城は江の川の西岸に聳える細長い山の上に築かれています。地形的には「細長い山」ですが、尾根筋には広く平坦な曲輪が続き、随所に石垣が用いられるなど、丁寧に普請されている様子がよくわかります。曲輪にはそれぞれ名前が付けられていて、この地域のお城を巡っているとしばしば行き当たる水の手「釣井の段」も井戸もろともに残されています。五龍城の麓には「千貫水」という湧水がありますが、この湧水ももとは湧水点がお城の近くにあって、五龍城の貴重な水源となっていたのだとか。水に恵まれ、川に沿って屹立する急峻かつ狭隘な山並みは、まさに築城の適地と言えるでしょう(難しい漢字を沢山使ってみたw)。

 


五龍城を築き、居住していたのは宍戸氏でした。宍戸氏はもともと常陸の八田氏の一族で、「鎌倉殿の十三人」でも大活躍?した八田知家の四男・家政を祖とします。安芸と常陸、大きく二つに分かれた宍戸家は、江戸時代には常陸の宍戸家が秋田の佐竹氏に、安芸の宍戸家が長州の毛利氏にそれぞれ臣従することとなります。ともに雄藩ですよね。宍戸家は江戸幕府下における独立大名にこそなれなかったものの、何となく何かを「持っている」一族のようです。安芸に領地を得た宍戸氏は南北朝時代以降に五龍城を本拠とするようになりましたが、毛利氏が本拠とした吉田郡山城と五龍城は直線距離で5kmほどしか離れていません。これほどに近接していながらそれぞれが自立した家として成り立つほど、宍戸氏と毛利氏は拮抗した間柄でした。そこからあっという間に中国地方を席捲する大勢力となっていく毛利元就、さすがですねー。

 

 

元就は宍戸氏を自らの陣営に取り込むために、実の娘を宍戸氏に嫁がせます。五龍姫と呼ばれたこの姫が毛利家と宍戸家を強く結びつけ、以後毛利家がどんなに危機に陥ろうと宍戸家だけは毛利家から離れることはありませんでした。毛利家にとっての宍戸家は、織田信長にとっての徳川家康みたいな関係だったわけですが、ある段階からは宍戸家が毛利家の臣下としての扱いを受けるに至ります。その過程もなんだか織田家と徳川家を見ているようですね。それでも宍戸家は最後まで毛利家の一門衆(つまり家臣団の中でもトップクラス)であり続け、1万石を超える所領を代々伝えています。ところで宍戸家が八田知家ならば、毛利家はこれまた「鎌倉殿の十三人」だ大活躍した大江広元の子孫ですね。大江広元と八田知家の子孫が鎌倉から遠く離れた西国で、5kmしか離れていないところでそれぞれに所領を経営し、ともに手を携えて戦国の世を大きく乗り越えて明治に至る・・・思えばなんと壮大なドラマでしょう。

 

 

 


五龍城は本丸に到達するまでの間、段々になった曲輪を一段一段登って行く形になります。本丸で終わりかと思うとそんなことはなく、本丸背後の巨大な堀切を隔てて、本丸より高いエリアに向けて更に曲輪が続いて行きます。ただしそれらの曲輪には本丸から直接行くことができず、山腹の曲輪へといったん下ってから改めて登ることになります。この不可思議な構造は、いったんは本丸を「ゴール」とする縄張りが完成したものの、更なる拡張を要することとなって堀切の先にまで曲輪が広がっていった、と解されています。毛利家の本城である吉田郡山城も、かつて山腹に存在したお城を全山に拡張することで規模拡大を果たしていますが、五龍城もまた宍戸氏自体の勢力拡大に伴って巨大化していったお城ということになるのでしょう。吉田郡山城にお越しの際は、ほんのちょっと足を伸ばして五龍城も是非見て行ってください。大きいお城なので往復するだけで2時間以上は見ておく必要がありますけれども。