現在の御坊市湯川町を苗字の地とした湯河氏(「湯川」でもよいようですが、どちらかというと史料上は「湯河」が多く、「ゆのかわ」と読んでいた可能性もあるそうです)が、小松原居館とともに本拠としていたのが亀山城です。

 

 

湯川城でもよさそうなもんですが、そこはそれ、山の形がいかにも亀なので亀山と呼ばれるとまあそうだろうな、と思ってしまいます。JR紀勢本線の御坊駅のすぐ北にある山なので、「駅の北側にある亀みたいな山」と思っていればすぐに見つかる山城です。
湯河氏について調べてみると、まず家紋が「武田菱」であることに驚きます。正確な出自は不明ながら、甲斐武田氏の誰かが紀州にやってきて湯河氏の祖になったことだけはほぼ間違いないのだとか。こんなところにも武田氏がいたんですね。室町時代は幕府の奉公衆として、また畠山氏の被官として力を発揮しますが、畠山氏の内部抗争で恐らくすり減っていたことに加え、紀州にやってきた羽柴秀吉への対応を見誤ります。抵抗し、逃亡し、投降した挙句に羽柴秀長に暗殺されるという悲しい顛末は、紀州国内の他の領主とも共通しています。幸いにも子孫は秀長に拾われ、小早川氏を経て浅野氏に召し抱えられ、浅野氏の広島移封とともに広島に移って明治までその血脈を保ったそうです。大名クラスの所領があったと思われる奉公衆時代から、幕末には120石取りにまで縮小していたようではありますが。

 


湯河氏の平時の居館とされる小松原居館は御坊駅のすぐ南側にあって現在は和歌山県立紀央館高校と御坊市立湯川中学校の敷地となっています。校地の東南に接する湯川子安神社には居館跡を示す石碑が立っていて、未確認ですがこの神社の池はかつての居館の庭園の一部であった可能性があるのだとか。あー見て来ればよかった。

 


亀山城は山頂部に土塁を伴う主郭を有し、切岸加工が施された段々の曲輪が連なっています。大雑把に言えば古風で、室町時代の有力な奉公衆のお城ってこんな感じだったんだろうなあということを想像させてくれる造りです。遊歩道以外のエリアは必ずしも見学が容易ではありませんが、見えない範囲にもきっと段々が広がっているんだろうなと思います。

主郭の入口には大きな石が嵌め込まれた土塁が残っています。

 

 

この石が公園化に伴うものか当時のものかが判然としなかったのですが、帰宅後にあれこれ調べてみるとどうやらお城由来のもので、いわゆる鏡石の類と見てよいようです。この石もまた、亀山城の貴重な遺構なんですね。