「手取城は車で登れます」とのネット書き込みを見て躊躇なく旅程に組み込みました(笑)が、草ぼうぼうで登城を断念するお城もちらほら見られた中で、手取城はお城までの車のアクセスも、お城の草刈り状況も申し分なく、「やっとちゃんと見られるお城に出会えた」という幸せな気分を味わうことができました。整備して下さっている皆様、本当にありがとうございます。広い城域の整備は、本当に大変だろうと思いますのに。

 


手取城は玉置(たまき)氏のお城です。玉置氏はもともと十津川あたりの出身のようで、大和から南下して和佐の地に至り、ここで勢力を拡大して14世紀には手取城を居城としていたようです。手取城の表採遺物は14世紀から16世紀を示していて、これが概ね玉置氏の支配期間と一致すると見てよいでしょう。戦国時代の当主は玉置直和・永直父子で、直和は羽柴秀吉の紀州攻めの際に近隣の湯川氏(親戚だったみたいですが)らと袂を分かって羽柴方につき、結果として湯川氏に手取城を攻められて落城させられてしまうのですが、紀州に入った羽柴軍に救われて羽柴秀長の傘下に入り、手取城を回復します。ところがこの時、従前より所領を削られたことに不満を抱いた直和は永直に家督を譲って高野山に籠ってしまったと言いますから、直和もなかなか一筋縄ではいかない、プライドの高い武将なのでしょう。永直は秀長没後に秀吉直下の武将となりますが、当時の石高は3千石余だったようです。旗本クラスの所領ですが、さて直和の時代の所領はどれくらいの石高に相当したんでしょうね。3万石くらいあったのであれば、所領を削られたといって怒る気持ちも分かります(笑)。永直は関ヶ原で西軍について所領を奪われ、更に大坂の陣では大坂城に入っていたというから貧乏くじもいいところです。それでも大坂の陣が終わった後で紀州国内における一揆の扇動役を担っていたとされ、そのくせ最後は徳川頼宣に召し抱えられるというのですから、永直もまた一筋縄ではいかない気骨ある人物だったのでしょう。そんな玉置親子が居住した手取城。往時はさぞや実戦的な構えを見せる玉置氏自慢のお城だったことが推測できます。

 


現在の手取城を散策すると、主郭から一段下がった郭には瓦が散らばっているのがわかります。瓦が散らばっているのは基本的にこの空間だけなので、お寺でもあったのかなと思いましたが、この瓦を居館跡とする見方もあるようです。礎石立ち・瓦葺きの建物が立っていて、主要部分と西の城部分とを仕切る堀切や東の城部分には石垣も散見されることから、このお城は(縄張はともかくとして)礎石、瓦、石垣という織豊系三要素を一応は備えていることになります。実際に関ヶ原前後まで玉置氏が居住していたことを思えば、近世城郭化されていると見てもそれほどの矛盾はないわけですが。

 


西の城付近の草が最も刈られていて、中央に櫓台状の檀を持つ曲輪の構造が大変よくわかります。でもこのお城の見所は実は東の城の方にあって、遊歩道がつけられていない先に石垣があったり大きな堀切があったりと、まるで宝探しのようなわくわく感のある城歩きが楽しめます。

 

 

旅程が立て込んでいる中ではありましたが、筆者も結構長い時間、「へー」とか「ほー」とか言いながら手取城でのひとときを楽しみました。実際、このあたりのお城では一番安心してお勧めできるお城ではないでしょうか。