国史跡に指定されている安宅氏城館跡(安宅本城、八幡山城、中山城、土井城、要害山城)。安宅本城の周辺にはまだ勝山城とか大野城とか、立地的に安宅氏だよな、と思えるお城がまだまだあるのですが、調査進展との兼ね合いなのでしょうか。未だ追加指定は受けていないようですね。そんな中で、離れているにも関わらず高瀬要害山城は国史跡となっています。離れていても安宅氏との関連が明確だからなのでしょう。国史跡指定の考え方は未だよく理解できていないのですが、史跡指定を受けていても受けていなくても、お城としての価値に違いがあるわけではありませんよね。

 


高瀬要害山城、またの名を馬谷(うまんたに)城とも呼ぶこのお城。「ようがいさん」なのか「ようがいやま」なのかでまず悩みました(笑)。多くの本やサイトでも紹介されているのですが、「戦国和歌山の群雄と城館」では「ようがいやま」。城郭放浪記さんも「ようがいやま」なので、ここでも「ようがいやま」を採用させて頂きました。もし異論がありましたらお寄せ頂ければ有難いです。
要害山城は15世紀の終わりに安宅氏家臣の吉田氏によって築かれ、境を接する山本氏に睨みを効かせる「境目の城」として機能していたようです。安宅氏と山本氏は豊臣秀吉に恭順した安宅氏と逆らった山本氏との間で天正年間まで緊張関係が継続していたそうなので、要害山城もその間は境目の城としての役割を保ち続けていたのだろうと推察できます。特徴的なのは西側斜面に設けられた畝状竪堀で、縦横繋がっているものもあれば縦だけのものもありつつ、一部を通路として開放している不思議な構造です。この通路部分については「脱出路」と考える向きもあるようですが、むしろ積極的に大手道と捉えた方が畝状竪堀の効果を最大限発揮できるような気がしますし、畝状竪堀の上にある曲輪から主郭部へのとっかかりも手の込んだ虎口となっていますので、こちらが正面(大手)で違和感ないように感じます。間違っても今の登城路ではないですよね。

 


今の登城路は車道から入って紀勢自動車道の下を潜り、堀切の下へと取り付くルートになっています。

 

 

どう見ても正規の登城路には見えませんが、高架下を潜る山道というのはなかなかありそうでなさそうな道なので、ちょっと面白いですよね。ちなみに筆者が訪ねた際は、畝状竪堀にもシダが生い茂り、あちこちのサイトで見た風景とずいぶん違うなあとしょんぼり帰還したのを覚えています。

 

 

そもそも登城前にも事故渋滞に嵌って、楽しみにしていた和歌山県内城めぐりの出鼻をくじかれてしまいましたので、いろんな意味でテンションが下がりながらの登城となってしまいました。いつか気分よく改めて訪ねたいと思います。