魚津城の戦いは戦国時代における主力級の攻城戦では珍しい玉砕戦となりました。80日余にのぼる籠城戦を耐え抜き、後詰めに来ていたはずの上杉本軍が分厚い攻囲網になす術もなく退却していくのを目の当たりにし、10人以上の将のそれぞれが首だけになっても自身の名がわかるように耳に名札をつけて自刃することにより終結するという、凄まじいまでの結末を迎えました。しかも落城したその日は本能寺の変の翌日で、魚津城落城の3日後にはその一報が織田軍に届いたことで、魚津城を占拠していた兵もろとも全面撤退となり、魚津城は再び上杉軍のものとなっています。それだけになお一層、自らの死の直後に訪れる日本史上の大きな変化を知ることなく命を散らした諸将の運命には涙を禁じ得ません。とかく戦国時代はロマンで語られることが多いのですが、多くの命を散らす「戦」というものに本来ロマンなどあろうはずがありません。

 

 

もともとは椎名氏によって築かれた魚津城でしたが、越中に侵攻した上杉軍によって椎名氏が駆逐されると、松倉城を中心とする越中東部の支配網の一環で、松倉城の有力支城として位置付けられるに至りました。その役割は主に海上(水上)交通の掌握にあったと思われ、江戸時代の絵図等を見てもどうやら総構えに相当する堀割が川に接続し、そのまま海までアクセスできたようだとの指摘がなされています。水上交通の要衝としての役割は元和一国一城令によって廃城となった後も続き、加賀藩の備蓄米保管倉庫という名目で実質的な城郭としての機能を維持し続けていたそうです。そういう意味では同じ富山県内の高岡城と同じ役割を担っていたわけですが、惜しいことに魚津城の土塁や堀は明治になって崩され、埋められてしまいました。

 

 

旧大町小学校とその周辺の道路を見るとうっすらと当時のお城の面影が浮かび上がるような気がしますし、航空写真で見るもさらに明瞭です。ところが現地に行くとそうでもなくて(笑)、普通に平たい普通の街並みが続いているだけです(若干の段差がある道路がないわけでもないのですが)。旧校庭の一角に築山状の盛り上がりがあって、これを土塁(櫓台)と見る考え方も成り立っているようですが、土塁が完全に崩された後に盛られた純粋な築山である、とする方もいらっしゃいます。いずれにしても、大町小学校が統合によって閉鎖となっている今、魚津城を本格調査するにはまたとない時期にありますから、何らかの調査が進んでかつての魚津城の姿が少しでもわかるとよいな、と思っています。