天正10年に勃発した魚津城の戦いは、織田方の大軍に囲まれて孤立した上杉方の魚津城を上杉景勝が後詰めすることができず、魚津在城十三将が揃って自刃することで幕を下ろすという凄惨な戦いでした。しかも十三将が自刃した日は本能寺の変の翌日であったといい、実にあとほんの1、2日持ちこたえていれば、織田方は自ずと兵を退いたはずのタイミングだったという点が、悲劇中の悲劇として語り継がれてきました。この時、上杉景勝は全く後詰めに来なかったのかというとそうではなく、魚津城までほんの5kmというところまで駆け付けていました。5kmの距離ですから、魚津城の将たちにも上杉方の旗は見えたことでしょう。ところが当時の上杉領は複数の侵入路から同時に攻撃を受けているありさまで、魚津城の救援に手こずれば領国全てに敵方の侵入を許してしまうという、まさに八方塞がりの状況にありました。このため上杉勢は魚津城を目の前にして撤退を余儀なくされます。引き上げていく上杉方の軍勢を見ながら、魚津城の将たちは何を思ったのでしょうか。いやむしろ、上杉景勝は風前の灯となった魚津城を見つめ、何を思ったのでしょうか。

 


魚津城から5kmほど離れた場所で、上杉景勝が陣を敷いたのが、今回ご紹介する天神山城だと伝わっています。天神山城は片貝川と布施川とに挟まれた河岸段丘上の丘陵上にあって、眺望の効くお城でした。調査の結果、山頂部からは弥生時代にまで遡る遺物が出ているので、古くから高地性集落として利用されてきたことがわかります。お城としてはっきりしているのは16世紀の半ば以降で、上杉謙信のもとで越中方面の攻略を担った長尾景直が整備し、越中の攻略拠点としたことが知られています。景直は後に越中の有力国人であった椎名氏の名跡を継いでいるので、越中攻めの先鋒を担っていたのでしょう。つまりは恐らく上杉景勝だけではなく、上杉謙信もまた天神山城に来ていますよね、たぶん(この地域の支配拠点としては越中三大山城に数えられる松倉城がありますので、天神山城は松倉城の支城的な位置づけだったようですが)。
魚津城の戦いでも天神山城が上杉方であった(しかも魚津城攻囲軍に邪魔されることなく入城し、撤退している)通り、越中における上杉方の有力拠点として機能していた天神山城ですが、清州会議後の各種調整の結果、「越中は佐々成政のもの」ということになりましたので、上杉方は天神山城も放棄したものと考えられます。佐々成政の後を受けた前田利家の家臣であった青山吉次・長正父子がこのお城に入っているようで、城内には今も両名の墓が残されています。青山長正の死没年は元和元(1615)年。ちょうど元和一国一城令が出る頃なので、このあたりで天神山城も廃城になったのでしょう。

 


そういう意味では織豊系の様相を呈しても、近世城郭としての整備がなされてもよさそうな天神山城ですが、現在見る姿にはそういった姿はあまり見受けられません。少なくとも現況では平坦面が連なるだけのお城に見えます。

 

 

それが公園化のせいなのか、整備が十分ではない(「竪堀」と表示があるところが笹薮で全くわからない、とかw)ことによるものなのかはわかりませんが、わずかに残る切岸や土塁からお城の匂いを感じ取るしかない、というのが実情のようです。