2024年4月14日、縄張図を描く皆様の会からのお誘いで、四ツ山城で一日縄張図を描いてきました。

縄張図を描くといいつつ、縄張図を描くことそのものにはそれほど熱い思いがないので(ごめんなさいっ!)、かねてからの疑問や積み残し課題をまずは見届けようと思い、午前中の2時間は城内散策に終始しました。

 

概ねこんなお城(現地案内板より)

 

このお城、「四ツ(津)山」の名が示す通り、遠くから見ると四つのピークを持つ山に見えます。また、どこから見てもよく見える目立つ山で、それは同時にこの山の眺望の良さを示していることにも繋がります。つまり、お城を築くにはもってこいの適地ということですね。そんな山の上にある四ツ山城は、はっきりした歴史がわからない割には比企エリアの他のお城と同様になかなか手の込んだお城になっています。ご一緒させて頂いたメンバーの皆様には若い学生さんたちも多く、それがしかも図が上手で縄張の読み方も卓越していまして、きっとこの世代の城郭研究をものすごい勢いで引っ張って行ってくれる方々なのだろうと思います。いいですねー。いい。実にいい。

 

綺麗な虎口。いわゆる「比企型」虎口ですかね。

 

謎の多い四ツ山城なので、敢えて知識を空にして「素」で眺めようと、長享の乱の頃の山内・扇谷両上杉の力関係などを頭に入れずに行きました・・・というかすっかり忘れていまして、家に帰って自分のサイトを見てみたら、2016年の小城小次郎はこんなことを書いていました。

 

「比企の城はその遺構のすごさとは裏腹にその歴史がよくわからないお城が多いのですが、それは単純にそのお城を利用した勢力が記録を散逸させてしまっていることが原因なのだと思うのです。たとえば杉山城にしてもそれを単体で見るのではなく、周辺のお城もまた歴史がはっきりしない、という周辺環境を踏まえれば、この地域のお城がみな資料を散逸させた勢力によるものであることが推測できるような気がするのです。
資料を散逸させた勢力というと、この地域に強力な勢力を張りながら次第に勢力圏を狭めてゆき、やがて夜逃げ同然の形で関東を離れることとなった上杉管領家がそれに当たるのではないでしょうか。少々乱暴な議論ですが、比企に濃厚な中世城郭を多数残さなければならなかった背景を考えれば、上杉氏以外には考えられないような気がするのです。
(中略)

長享元(1487)年に没することが記録上明らかな増田四郎重富という人物がこのお城に居住していたとの記録もありますので、この頃には確かに四ツ山城は存在したのでしょう。四ツ山城の周辺では山内上杉氏と扇谷上杉氏が長享2(1488)年、と明応3(1494)年の2回に亘って合戦(高見ヶ原合戦)を繰り広げていますので、四ツ山城も何らかの機能を果たしていたことでしょう。」

 

あれ?これ、ほぼほぼ最後の論考で聞いた話だ・・・。

独学独力でこれを考えていた2016年の小城小次郎、すげー(本人が忘れてたけど(笑))。

 

今回の縄張図描きではもうひとつ。山頂部の遺構は非常に見やすい反面、一段下がった周辺部はほとんど見たことがないという点が気になっていたので、これを機にしっかり見てみようと思っていました。縄張図を描き始めてしまうとどうしても全体感を見失ってしまいそうなので、2時間かけて城内を歩き回ったのはそういうことです。その結果、このお城は曲輪や横堀などの加工が施された尾根と、特に何もしていない尾根とが混在していること、土塁の向きを含めた全体の方向感がどうやら北を向いているらしいというあたりが見えてきました。ついでにいうと現在の遊歩道には後世のものが混じっていることにも気づかされました。

 

横堀見つけた

 

見上げた姿もかっこいい。でもあそこまで登り直すのか・・・

 

そんなこんなから導き出された今回の結論は、何しろどうやら北を向いたお城だということで、だとすればここを最前線とする勢力が北に向けてお城を作ったということで、そんな勢力は誰だっけ・・というのが議論の的。いずれそのあたりに言及した研究が誰かから発表されるのだと思いますので、ここでは結論は避けておきますね。

ついでに言うと、ここで出た話を更に応用していくと、いわゆる杉山城問題が解決しちゃいそうな勢いがありました。「杉山城問題に終止符を打つ」というタイトルで、そのうち参加者の誰かが本を書く(かもしれない、いや多分出ないと思う)ので、本が出たらみなさんぜひ読んでみてください(え)。

 

桜も咲いてました

 

久々に参加した縄張の会でしたが、うんうん、面白かったですね。ひとつのお城に5時間滞在してその役割と構造を解きほぐすという機会はそうそうありませんから。またタイミングが合ったらお世話になります。今回は本当にありがとうございました。