鎌倉幕府が滅び、建武の新政が綻びを見せようとしていた頃、全国各地で足利・新田・楠木・北畠らの諸将と後醍醐天皇の皇子たちが飽くなき戦いを繰り広げていました。畿内周辺で暴れていた楠木はともかくとして、奥州からまっしぐらに駆けつけて駆け抜けてそして戦死していく北畠顕家や、九州まで逃れた挙句に勢力を挽回し、やがて室町の覇者となっていく足利尊氏など、よくもまあと思うくらいに全国各地を転戦しているのですが、小黒丸城とその周辺では新田義貞が斯波高経を相手にこれまた死闘を演じています。更には新田義貞終焉の地となったこの地域からは義貞の兜に擬せられる兜が出土したともされ、義貞を祀る藤島神社も創建されました(移転により現在は足羽山に遷座しています)。義貞の兜が都合よく土中から見つかるというのも考えにくく、藤島神社に奉納されたその兜も土中に埋もれていた痕跡がないとか銘文が読めないとか時代が違うとか、いろんな見解が出されているようではあるのですが、要するにこの地域は新田義貞終焉の地として、義貞を南朝方の大忠臣と仰ぐ方々によって(大袈裟に言えば)聖地化された地域となっているようです。

 

 

小黒丸城はそんな義貞伝説と密接に関わるお城です。新田氏が後醍醐天皇の皇子たちとともに金ヶ崎城と杣山城を拠点に頑張っていた頃、足利方の猛攻を受けて金ヶ崎城が落城します。実は筆者はこの戦いで義貞は死んだものと思っていた(当時、足利尊氏自身もそう思っていた節がある)のですが、義貞自身は何らかの方法で城を逃れ(城を離れていた際に落城したという説もあるようですが)、越前で再起を図りました。その時、直接のターゲットとなったのが後に朝倉氏に実権を奪われるまで越前守護職にあった斯波氏で、鯖江にいた斯波高経は義貞に追われ、黒丸城を中心とする支城群(足羽七城、と言う層です)を構築して義貞に対抗しました。この黒丸城は同じ福井市の黒丸城町(同じ「黒丸」の地名ですが、黒丸城町と黒丸町は直線距離で5km以上離れています)にあった大黒丸城とされ、小黒丸城は足羽七城、つまり支城の扱いだったといいます。ところがこの小黒丸城が戦いの中心点となり、3万の兵を揃えた新田義貞が小黒丸城を囲んでいる際に、近隣の藤島城での苦戦を耳にしてわずか50騎で督戦に向かったところ、多勢に囲まれて敢え無く戦死・・・となりました。つまりここは新田義貞による最後の城攻めが行われたお城、ということになります。伝承が全部本当なら、ですが。

 


小黒丸城には痕跡らしいものはないのですが、黒丸町一帯は埋蔵文化財包含地として登録されているそうです。住宅と田んぼしかないエリアで、大きな開発の手も及ばなさそうなエリアであることに加え、南北朝時代の初め頃にいったいどれほどの構築物が設けられたのかも定かではありませんが、まずは伝承を信じ、この地を囲んだ3万の新田軍を想像してみるのも悪くはないのではないでしょうか。なお、城址碑はもともと現在地より50mほど北方にあったものを圃場整備の際に移転したものだそうです。小黒丸城の中心はどのあたりにあったんでしょうね。