全国各地に存在する「陣屋」。ひとくちに陣屋といっても大名陣屋や旗本陣屋のようにその土地を領するいわゆる殿様が居住したり直接統治したりするものもあれば、代官が派遣される代官陣屋もあります。また代官といっても大名領の飛び地を管理する代官だったり、広大な天領を管理する代官だったりと、実に様々な陣屋がひとくくりに「陣屋」と呼ばれていることに気付きます・・・という話は以前別の陣屋の項でも書いたことがあるのですが、個々の陣屋を紹介する際にはその性格をはっきりさせなければいけないのでここでも書かせて頂きました。本保陣屋は越前国内に存在していた天領を管理するための代官陣屋で、かつては鯖江にあったそうですが鯖江藩が立藩したため場所が移動し、享保6(1721)年から明治までここに陣屋が置かれたのだそうです。本保陣屋を所轄していたのは飛騨高山に本拠地を構えた飛騨郡代だったそうですから、飛騨郡代もずいぶん広範囲に管理地を持っていたんだなあとつくづく思います。

 


本保陣屋にまつわる飛騨郡代の逸話として、大井帯刀の話をしないわけにはいきません。大井帯刀永晶が飛騨郡代に就任したのが文政12(1829)年のこと。天保4(1833)年には有名な天保の飢饉に直面しますが、帯刀は本保陣屋に自ら在陣して指揮を振るい、飛騨の備蓄米を売却して本保の領民に貸し与えるなどのほか、富裕層からの寄附に加えて私財をも投げ打って救済に務めたと言います。帯刀はそれ以前にも飛騨で二回の飢饉と二回の大火を乗り越えたといいますから、危機対応のエキスパートと言える頼もしい存在だったということでしょう。規律の厳しい幕藩体制においてはこれらの行為は越権行為でもあるため、帯刀は文字通り命がけで領民救済に当たったということになります。そんな帯刀の遺徳を称え、本保では今でも本保陣屋まつりを執り行って現代にまで帯刀の名を伝えているのだそうです。いいなあ、こういう人。こういう人生。
大井という苗字と幕臣という立場から察するに、この方は恐らく武田の遺臣の後裔ですよね。戦国大名としての武田は滅びましたが、こういうところで武田の遺臣(だと思う)が活躍しているのを見ると、それだけでも何となく胸が熱くなります。いや大井帯刀が武田の遺臣の後裔じゃなかったら何にもならない話なんですけど(笑)。
ちなみに本保陣屋の遺構は残っていませんが、陣屋があった場所には小さな公園が設けられ、冠木門なども設置されているので陣屋っぽい構えになっています。これだけでも帯刀の名とともに本保陣屋が大事にされていることがわかりますよね。