新見市内で一泊し、翌朝に散歩かたがた訪ねてきたのが新見陣屋。思誠小学校という小学校の敷地になっている上、国道沿いにありますので非常にわかりやすいところにあると言えます。小学校の名前がものものしいのでもしや、と思いましたが、やっぱりそうでしたね。新見藩の藩校の名前をそのまま学校名にしている、由緒正しき小学校です。

 

 

藩校に由来する校名って、全国にどれくらいあるものなんでしょうね。どこの校名もいかにもな感じで、通っているだけれぴりっとしそうな気がします。
新見陣屋は大名陣屋でした。元禄10(1697)年に津山藩の森氏が改易となり、支藩扱いとなっていた美作宮川藩主の関長治が隣国備中へと引っ越して、新たに立ち上げた藩が新見藩です。藩立ち上げと同時に新見陣屋も建設され、以後明治まで新見藩の藩庁として藩主の関氏のもとで無事に代々伝えることとなりました。森家と関家はもともと別の家で、そもそも森家は美濃、関家は尾張の出身です。尾張一宮である真清田(ますみだ)神社の神官が武士化したのが関家で、当時の居城は真清田神社の真ん前(今の三菱UFJ銀行のあたり)にあったそうです(石碑が立っています)。そこから織田家に仕えて森家と親しく交わるうちにやがて一体化して、森家から関家に養子に入ったり、逆に関家から森家に津山藩主を迎えたりという関係だったようです。ただもともと別の家は別の家。森宗家が改易になっても関家にお咎めはなかったようで、晴れて立藩となったという次第。

 


現在の新見陣屋には、隣接していた藩校思誠館の校門だった門がそのまま思誠小学校の門として残されているほか、石垣と石段とが残っています。「石垣があるよ」という先達の書き込みを見てわくわくしながら見に行ったのですが、時はあいにく梅雨時で、目的の石垣は見事なくらいに緑の中(涙)。

 

 

校内の段差に設けられた石段はいかにも陣屋というか城郭らしい風情を醸していました。まあこちらが見られたからよしとしましょうか。
ちなみに新見陣屋の正面にある丘は「城山公園」として開放されていますが、こちらはお城ではないそうです。陣屋(お城)の前にあるので城山、と呼ぶようになったのでしょうか。お城があってもよさそうな山ではあるんですけどね。一応歩き回ってみましたが、公園として十分に整備されている中で確実にお城らしい場所を探すことはできませんでした(城はなかったのだからある意味当然なのですが)。