続日本紀に唐突に登場する「備後国安那郡の茨城、葦田郡の常城を停む」との記載。養老3(719)年に築城が停止されたと解釈されるこの記事は、備後に二つの古代山城が存在し、かつ未完成であったことを示唆するものとなっています。茨城も常城も未だその場所は特定されず、築城停止となったのが果たして築城のどの段階であったのかも定かではないため、そもそも遺構が残るような山城であったのか(未着工ではなかったのか)という疑問すらも残されるという、謎だらけの古代山城です。
このうち「茨城」のものではないかと考えられる遺構があるというので、見学の機会を得てはるばる現地を訪ねてみました。ちなみに「茨城」は普通に「いばらぎ」と読むケースも多いようですが、ここでは地元の研究者さんたちが使用している「うばらのき」を尊重させて頂きました。

 

うっすら辿れる堀底状の地形


現地で見ると、まず人工的な構造物であることに疑いはありません。一直線に掘られた堀状の地形はその前後の何かを守るような構造ではなく(曲輪を持たず)、ただ長大な線状の地形を刻むのみとなっています。断続的に残るこの遺構をぐるっと一周繋ぎ合わせるとおよそ2kmちょっとの広大な空間が誕生します。それはまさしく古代山城と呼ぶに相応しい景観であり、地形的にも「なだらかな山頂部を持つ山塊」である点で筑前大野城や備中鬼ノ城とも共通した特徴を持っています。面白いのは他の多くの古代山城が人里離れた山中に存在するのに対し、ここでは山城内部にちゃんとした集落があって、ちゃんと人が住んでいるということ。現代でも居住空間として活用するに足るだけの地形を有している点は、遺構が残りにくかった点も含めて、ここが茨城であることを間接的に示しているような気がします。
茨城推定地はここの他にもいくつかあるようです。ただいずれも遺構がなかったり、地名的に葦田郡を飛び出してしまったり(岡山県井原市の「井原」を「茨」と見立てる説など)で、決め手に欠く状態にある中で、この場所だけは確かに遺構を残しています。ならばここで決まりなのかというと、なかなかそうも断定できません。ここが「古代」の山城であることの証左が必要となります。普通に考えられる「証左」とは・・・

・版築の土塁がある(鬼ノ城みたいなやつ)
・土塁の基底部に石列がある(いわゆる神籠石。永納山城では石列上の版築土塁も復元されている)
・水門がある(谷部に石垣がある。古代山城にはつきものの遺構)
・大きな礎石を使った建物がある(門だったり倉庫だったり。総じて礎石はでっかい)

といったあたりが考えられるのですが、今のところこの地から明瞭な証左は得られていません。堀の前後の地形も入念に見てきましたが、「ここからは土塁」と言ってよさそうな傾斜は観察できず、自然地形の中に堀が一本通っているという印象です(そういう意味では中世の「道路」の遺構に見えなくもありません)。また、ここには多くの人が住んでいて、この方々が居住しているところがまさに倉庫群があるべき場所と言えそうなのに、それらしい大きな石が出たとか何かしらの遺物が出たとかいう話は説明の中では聞きませんでした(大きな石自体は周囲にごろごろしていますが)。筆者が見学したエリアでも、一ヶ所だけ想定土塁線が道路で断ち切られた場所があったのですが、特に版築状の縞模様も見当たらず、石列と断定できる石も確認できませんでした。数少ない「これは?」と言えるものとして、「天然の岩盤の脇に積まれたとみられる大きな石二つ」があって、これが水門に相当するのではないか、との推測がなされているのだとか。

 

 

筆者もこの目で見てきましたが・・・うーん。難しいですねー。水門に足るだけの石垣が過去にここにあったのであれば、何かしらの伝承が残っていてもおかしくなくて、残っていれば当然に地元の研究者の皆様によってその伝承は収集されていると思いますし。あとは地名。付近に残る「芋原(いもばら)」は、「茨」(いばら、うばら)とも音が似ています。他の推定値には(井原を除き)「茨」を想起させる地名が存在しないことも、消去法的にここが茨城であることの傍証とはなり得るのかもしれません。

いずれにしても、筆者が見聞できたのは広大な想定城域のごくごく一部にすぎません。思えば四国の屋島城でも、地道な踏査の結果見つかった石垣の残欠をきっかけに壮大な城門の発見に至っていますから、これからこの地でどんな発見があるかもわかりません。推測を交えて言えば、筆者はここを古代山城と見ても問題なさそうに思っていますので、いずれは上に掲げた「証左」のどれかが発見されるのではないかと期待しています。古代山城の発見となれば、近来稀に見る大発見ですよね。確定的な証拠が得られる日を、今か今かと楽しみに待ちたいと思います。