大光寺城の主郭があった付近と想定されるコミュニティセンターの一角には大きな石碑と案内板が立てられていて、そこにお城があったことを思い返すことができるようにはなっていますが、遺構らしい遺構は残りません。地図で見ると、かつての城域が大雑把には想像できますが、かつて津軽三大名(十三安東、石川、大光寺)と称されていたお城の面影はありません。大きなお城だったみたいですけどねえ。

 


大光寺には少なくとも三つのお城が時代ごとに築かれていたようで、最初のものは建保5(1217)年、曽我広忠がこの地の地頭代になったことが始まりのようです。この曽我氏は南北朝時代に北朝方として南朝方の南部氏と戦って敗れて没落し、かわって歴応元(1338)年に十三湊から安東氏が移ってきた時期があり、この時の大光寺城が二つ目。最後の大光寺城は永享年間(1429~1441)以降、大光寺が南部領となってからのもので、南部氏一門の北氏が、更に滝本重行が大光寺城に入っています。この頃から津軽の動静が怪しくなり、天正2(1574)年と同4年の二度にわたり、大浦為信(津軽為信)の攻撃を受けることとなります。滝本重行は猛将として知られる人物で、一回目は700の兵で4,000もの津軽軍を押し返したと伝わりますが2回目では落城。大光寺城にはかつて滝本重行によって父を殺された乳井建清が天正10(1584)年から津軽方の部将として入りました。慶長4(1599)年には、津軽為信の娘婿となった津軽建広が入りました。建広はほどなく大光寺城を離れますが、津軽為信の死後勃発したお家騒動に巻き込まれた建広の家臣らが大光寺城に立て籠るという事件が発生しています。その後、慶長15(1610)年には弘前城築城とともに廃城となり、用材などは弘前城へと運ばれました。

 

 


現在、弘前城の亀甲(かめのこ)門(北門)として残る城門は、大光寺城の門を移築したものと伝わります。弘前城の櫓と門はどれもみんな同じような形状をしているのですが、亀甲門もその姿形はともかく、移築された痕跡は残されているのだとか。象徴的に移築したという意味合いもあるのでしょうから、大光寺城は南部から見ても津軽から見ても非常に重要だったということなのでしょう。ちなみに筆者は確認していないのですが、大光寺城の亀甲門跡は今でも若干食い違いの痕跡を残しているのだそうです。見てみたかったー。