つい先だって、近江坂本城の石垣発見(しかも地上で)!という、センセーショナルなニュースに接し、「これは現地説明会に行かなければいけない」と直感し、もろもろの予定をもろもろ変更して近江へと向かいました。

十分に朝早く行ったつもりでしたが、途中でサコッシュが崩壊したり(京都駅のドンキで買い換えましたw)、重い荷物をコインロッカーに預けたりしている間に、整理券配布所には長蛇の列が・・・!すごいですね。この人気ぶり。坂本城の注目度の高さが伺えます。1時間半かかってなんとか2回目の説明会枠を確保し、集合時刻までの間に壺笠山城を軽く一攻めして、満を持して現地へ。例によって道を間違えたりしながらも、無事に説明会に間に合いました。

 

 

おおおお。これはすごい。まさに戦国時代からのタイムスリップ!

坂本城の落城はもちろん本能寺の変と同じ天正10(1582)年。少なくとも440年以上もの間、手つかずのまま地中に残された石垣です。説明者の方はもちろん坂本城の石垣であることについて慎重な検討を加えているとのことでしたが、随所に埋め込まれてた転用石の存在や坂本城本丸(発掘済)との位置関係からも、坂本城の石垣であることに異論をはさむ余地はないでしょう。素晴らしいです。手つかずの天正石垣です。もうこのまんま永久保存したいくらい。

 

転用石材

 

明智光秀が転用石を用いることは、福知山城などでも確かめられています。単に石材が足りないというだけでなく、何らかの意味合い(地鎮的な?)をも持たせていたと思うくらいに、どかどか転用石を使っていますよね。この日、膳所城も訪ねているのですが、こちらには転用石地蔵がまとめて祀られていて、そこには「坂本城→大津城→膳所城」と、湖畔3城を全て巡ってきた可能性をも示唆する解説がなされていました。案外本当に移設されているのかもしれませんね。

 

膳所城の転用石地蔵

 

今回検出された石垣は、従来考えられていた三の丸のラインよりもかなり城内寄りで、その分だけ坂本城が従来の想定よりも小さくなったことを示すものとなっています。それはそれで実に重要な発見ですね。堀から絶えず水が湧出しており、比叡山からの伏流水が堀を満たしていた(琵琶湖の水を引き入れたのではなく、むしろ堀の水が琵琶湖に注いでいた)と推察されるのだそうです。また、石垣の一部が曲輪側に折れ曲がっていて、「舟入」の存在が推定されるのだとか。

 

 

「舟入推定地」の石垣は増設されたような形状を示しています。坂本城は、少なくとも1回以上の増改築がなされていることになりそうです。

今回、これだけ良好な石垣が検出できたということは、他のエリアの地中にもまだまだ遺構が眠っている可能性があるということ。石垣の削られ方から察するに、本来の遺構表面が残されているかどうかは微妙かもしれませんが、石垣ラインは辿れそうですよね。今回の石垣もどのような形になるのか(保存されるのか破壊されるのか、地下保存か露出表示か)全く定まっていないようですが、何らかの形で(できればバーチャルではなく)見えるようになるといいですね。そうしたら坂本城は「遺構のない城」ではなく「石垣の残る城」となります。かっこいいじゃないですか。しかもその石垣は寛永でも元和でも慶長でも文禄でもなく、天正の石垣です。城郭石垣研究史上、最も得にくい天正期の「示準化石」になり得る、貴重な石垣です。

今回検出された石垣の適切な保全を祈ってやみません。そしてこれから先の調査も楽しみにしています。