柳田国男「遠野物語」の舞台となった遠野は、今も民話の世界が色濃く残り、観光スポットとしても大変有名なところです。ジンギスカンの美味しい町でもありますね。初めて遠野を訪れた際には雨に見舞われたということもあって十分な見学ができませんでしたので、日を改めての再訪となりました。だったらついでにお城にも行かせてもらおうと、鍋倉城にも足を運ぶことに。鍋倉城は2023年には国史跡に指定されていて、ついでに言えば遠野市が認定する遠野遺産にも指定されています。
鍋倉城には大きく分けて二つの歴史があります。一つは中世以来の遠野の領主であった阿曽沼氏の歴史。そしてもうひとつは遠野南部(八戸)氏の歴史です。

 


阿曽沼氏はもともと下野国を苗字の地とする藤原秀郷系の武士で、現在の佐野市には阿曽沼城の土塁と堀が一部残されています。阿曽沼氏は大きく陸奥と安芸とに分かれ、それぞれに発展していきますが、本流は陸奥にあったようで、その本拠地となったのが遠野でした。遠野の盆地の北側にあたる場所におかれたのが、中世以来の阿曽沼氏の居城となっていた横田城。そこから天正年間に今の鍋倉城へ移ったとされていますが、実際に移ったのはもう少し早かったのではないかとの説もあるようです。いずれにしても戦国時代の終わりには鍋倉城(こちらも横田城と呼ばれたそうですが)が阿曽沼氏の本拠となっていました。天正18(1590)年の小田原の役では、東北地方の諸大名も小田原参陣を要請されていましたが阿曽沼氏は動かず、所領没収こそ免れたものの独立大名としての許しは得られず、南部氏の家臣としてのみ存続を許されたのだとか。そんな阿曽沼氏が驚天動地の事件に巻き込まれるのが慶長5(1600)年の関ヶ原の役。南部氏に従って最上に加勢し上杉と対峙していた阿曽沼広長が遠野に戻ってみたら、鍋倉城は広長に反旗を翻した家臣の面々に乗っ取られており、妻子も殺害された挙句に妻の実家であった世田米城へと逃げ込む羽目になりました。広長はこの後ついに遠野を取り返すことができないまま、伊達氏の庇護を受けてその生涯を閉じたそうです。この時期、同じ東北の弘前(当時はまだ弘前城がなく、堀越城が津軽氏の本拠でした)でも津軽為信が堀越城を乗っ取られているのですが、こちらは為信が無事に奪還しています。それぞれ事情は異なるものの違う結果をもたらした阿曽沼氏と津軽氏。津軽が強かったと見るのか、単に運がよかったと見るのかは様々だと思いますが、二つの事件の影にはなんとなく南部家が関わっているような気がしなくもないですね。あくまで憶測でしかありませんが。

 

 

阿曽沼氏が去った後の遠野はなかなかまとまらなかったようで、伊達領にも近い遠野地域の安定化を図るべく、南部氏は最後の切り札を投入します。それが、根城にあった八戸市の遠野への移転。遠野での八戸氏の自治権を認める代わりに移転を認めさせたそうですが、よく八戸氏が動きましたね。八戸氏はもとを正せば南部家の嫡流とも呼ぶべき家柄で、南部氏への帰属意識も強くはなかったはずなので(なればこその自治権なのでしょうけれども)。こうして八戸氏は遠野南部氏と呼称を替え、明治に至るまで鍋倉城を居城とし続けました。南部領には盛岡城のほかに花巻城が存在していますが、鍋倉城もまたちゃっかり存在していたことになりますね。一国一城令とは・・・って感じですが(笑)。

 


面白いのは、根城を構成する各曲輪の呼称ともなっている面々(新田とか中館とか沢里とか)が、鍋倉城の各曲輪をそのまんま占領していることでしょうか。根城はいわゆる群郭式の代表格とも言えるようなお城ですが、鍋倉城もまた各曲輪の独立性が高い群郭式のお城で、「自治権を認められた」すなわち中世以来の共同体のような惣領制をそのまま維持することが認められた結果として、遠野南部の惣領家を囲むように、ほぼ同格の各家が鍋倉城の中にそれぞれ屋敷を構えていたということになるようです。これ、面白くないですか?もしかしたら中世以来の群郭式のお城が、明治まで生き残っていたということですよね。筆者にはもう、これだけでこのお城は国史跡に値するお城だと思います(既に指定されていますけれども)。

 

 

鍋倉城の現地は、模擬櫓風の建物がひとつあるほかには、一般にはお城らしさがあまり感じられない公園名のではないかと思います。ただ相当のお城好きが見ると、ここは面白いところだらけなんですよね。まず本丸曲輪面に露出している石。恐らくは礎石だったと思われる石が点在していて、発掘でも明瞭な建物跡が検出されているほか、門跡なども確認されているそうです。発掘後に埋め戻されてはいるものの、見る人が見るとうっすらと遺構が見えるんですよね。切岸も見事なら、横堀も見事。かつては大手として使われた搦手門も綺麗に残されていますし、目が慣れてくると公園化されているとはいえ、お城としての遺構はほぼ手つかずで残されていることがわかります。石垣などの目を見張る構造物がない(曲段に少ない)ため地味な存在に見えがちですが、落としてみろと言われたら並大抵では落ちない構えを今もそのまま保っています。民話の里、座敷わらしの里、河童の里、ジンギスカンの里・・・遠野にはいろんなイメージが溢れていますが、折角なので遠野を訪れた際には鍋倉城にもお立ち寄りください。車で山上まで行けますし、景色もよいですよ。