天正12(1584)年の小牧・長久手の戦いに連動する形で、加賀・能登・越中では前田利家と佐々成政が猛烈に戦っていました。中でも末森城の戦いは、佐々勢がおよそ15,000の大軍を率いて末森城を囲んだものの、わずか300の勢が籠る末森城を落とすことができなかったことで戦況が膠着状態となり、結果として佐々成政が追い詰められていくきっかけともなりました。

 

 

寡兵をもって末森城を守り抜いた奥村永福こそ勲功第一であり、なればこそ奥村家は後の加賀前田家中にあって、前田八家と呼ばれる筆頭家臣団に二家もランクイン(?)するほどの待遇を受けるに至りました。奥村永福はもともと前田家に仕えていた家柄で、本来の末森城代であった土肥氏とともに末森城を守っていたそうですが、土肥氏が戦死してしまうほどの激戦を経て、土肥氏に代わって末森城を預かることとなりました。一国一城令で末森城を廃した後も、奥村氏の知行は末森だったみたいですね。
奥村永福といえば前田慶次で、かの「花の慶次」では親友の奥村永福を救うべく、前田慶次が前田利家のお尻を叩いておいて末森城に入城して加勢する、といったシーンが描かれました。実際に前田慶次がそんな形で活躍したのかどうかは知りませんが、末森城が落城を免れたのは、前田利家が佐々勢の背後を衝いたからであることは間違いありません。慶次にせっつかれるまでもなく、利家にとってもここが切所であることは痛いほどわかっていたことでしょう。

 


そんな戦いの舞台となった末森城ですが、駐車場完備の公園として整備されています。ただ残念なことに遊歩道沿いのエリア以外は結構な薮なので、末森城の全貌がどんな形だったのかを知るには、相当な装備を必要とします。縄張図によれば城域は相当に広く、主郭部には長い帯曲輪を噛ませて側面からの攻撃を阻む仕組みになっていたようです。でもどうやって300人で守ったんですかね。そのあたりももう少し知りたいところですが、主郭周辺しか見学ができない現状からは全てを想像に任せるほかにはなさそうです。
これで今回の加賀・能登・越中の旅はおしまいとなり、小松空港から空路で東京へと戻ったのですが、あと1時間くらい余裕があったら金沢城にも立ち寄れました。まだ鼠多門を見ていないので、できれば立ち寄りたかったのですが(快晴でしたし)、荒山城に寄り道したのがこんなところで響きました。まあ荒山城もよかったのでよかったのではありますが。金沢城、またねー。