田んぼの真ん中に駐車場・トイレ完備という夢のような城跡がありました。富山県史跡にも指定されている木舟城は、創築が12世紀にまで遡る古城です。

 

 

この地域に根を張った石黒氏は在地勢力や一向一揆衆との小競り合いを繰り返しながらも天正年間まで命脈を保ちます。先日掲載した安養寺城を焼き討ちしたのも石黒氏でしたが、越中が織田・上杉という二大勢力の境目となった時点で進退窮まり、上杉を裏切って織田についた挙句、織田に疑われて一族根絶やしにされるという無惨な最期を遂げました。その後は上杉氏の重臣であった吉江氏が木舟城も守備しますが、織田軍の攻勢に耐えきれずに撤退し、代わって入った佐々氏の重要拠点となり、佐々成政が前田方の末森城を攻める際にはここが起点となったとも伝わります。更には前田方の最前線であった今石動城攻めも木舟城を起点に行われたとか。佐々氏が羽柴秀吉の軍門に下った後、越中は前田氏の領するところとなり、木舟城には前田利家の末弟である前田秀継が入りました。

 

 

もともと今石動城にいた秀継は息子の利秀を今石動城に残して木舟城に移ってきたのですが、ここで秀継を悲劇が襲います。いわゆる天正の大地震によって木舟城は地盤もろもと数メートルも陥没し潰滅。秀継夫妻や家族は城内で圧し潰されて、遺体が発見されるまでにまる三日を要したとの伝承が残されています。天正の大地震は一度に起きたとも、短期間に複数の大地震が連続して誘発されたとも言われていますが、かの埋蔵金伝説が残る内ヶ島氏の帰雲城が町もろともに消滅したのも、近江長浜城で山内一豊の一人娘が圧し潰されたのも、大垣城や蟹江城が潰滅的打撃を受けたのも、みんなこの時の地震によるものでした。今石動城にいた利秀は今石動城をそのまま本城とし、城下もまるごと今石動へと移転したため、木舟城とその城下は再建されることなくそのまま廃されることとなりました。地震によって何かもかもを失ってしまった木舟ですが、そういう中にあって城の痕跡が今日まで田んぼの中に残されたのは、むしろ奇跡と言ってもよいのかもしれません。

 

 

もしかしたら天正の地震の記憶を何らかの形で留めようとして、今日まで大事に残されてきたものなのかもしれませんね。地震というものは何もかもを一瞬で奪い去り、そして長く人々の記憶に留まるものなのかもしれません。