石碑一本のお城です・・・が、その石碑がなかなか立派で、蓮沼城がタダモノではないお城であることを暗に物語っているようにも感じます。

 

 

現在は集落に埋もれていますが、かつての蓮沼城は少なくとも一辺50mほどのやや細長い方形の主郭を持ち、西に土橋が開いた堀を設けていたことまでは、地籍図からの読み取り結果でほぼ間違いがないのだそうです。一方で、小矢部川の氾濫などにより城域の地形は大きく改変されているとも。ここから先は推測ではありますが、蓮沼という地名が示す通りこの地域には広大な沼沢地があったと考えられ、恐らく蓮沼城は水に守られたお城だったのでしょう。砺波郡における重要拠点として地域の盟主的存在が相次いで居住し、越中攻略時にも必ず攻撃対象となってきた蓮沼城の存在意義は、現在見る「何もない」姿からは想像ができないくらい、大きかったのだろうと思います。
蓮沼城は室町時代の永享年間(1429~1441)年に遊佐氏によって築かれたもののようです。遊佐氏は畠山氏の重臣で、河内や尾張、能登、越中の守護を歴任した畠山氏に従い、それぞれの畠山氏に遊佐氏が従っていたようです。越中にいたのは越中遊佐氏で、越中守護代を務めていた時期もあるようです。越中守護代を務めた家としては他に神保氏や椎名氏などもあり、これらの有力氏族が越中を分割して実質的に領有していたと思われ、そうした中で遊佐氏は砺波地方を治めていたとか。そんな遊佐氏の本拠地が蓮沼城であったのか、遊佐氏の勢力圏内に置かれたお城のひとつが蓮沼城だったのかは筆者が軽く調べた限りではよくわからなかったのですが、蓮沼城にいたとして古文書などに記されている「加賀守」の呼称は、越中遊佐氏の本家筋には見当たらないような気もしますので、越中遊佐氏の一族の誰かが蓮沼城を守備していた、ということなのかなあ、と考えています。遊佐氏は16世紀の初めくらいまでは蓮沼城にいたことが確認できますが、一向一揆の台頭とともに遊佐氏は越後に亡命?し、蓮沼城には上杉氏の圧力を受けて越中西部に退進してきた椎名氏が入りました。しかし蓮沼城も上杉氏に落とされ、上杉氏が越中から撤退した後には佐々氏の拠点網に組み込まれました。しかしまたまた前田氏に攻められて落城し、ここで蓮沼城はお役御免となったようです。こうしてみると、有力氏族が入れ代わり立ち代わり入城してはその都度落城の憂き目にあってきたのが蓮沼城の歴史であったということができ、やっぱり蓮沼城はタダモノではなかったのだということが改めて感じられます。残念ながら、現地に行っても何もないのではありますが。。。