堅田城にはこれまではっきりとした伝承はなく、それ故か長いこと「一向一揆の城」といった漠然とした評価しかなされてこなかったもののようです。ところが発掘調査が実施されたことでこのお城が弥生時代の遺跡の上に少なくとも二時期に亘って造成されたものであることがわかりました。その二時期とは、13世紀と16世紀。あっさりと「二時期」としてみたものの、その二時期には実に300年もの開きがあることになります。

 

 

また、13世紀の造成は麓で発見された「堅田館」と時期を同じくするとの指摘もなされており、堅田館の主となったどこぞの武家がいわゆる「詰めの城」的なもの(13世紀にその概念があったのかどうか・・)として山の上にも何らかの造作を施したもののようです。そして、もっと特筆すべきは16世紀の造成で。この時に構築された現在の主郭と、主郭に盛られた櫓台状の高まりはいずれも盛土によって構築された人工物であることがわかっています。

 

 

現在の主郭は決して平坦ではないため自然地形に近い(つまりあまり造成されていない)ように見えるのですが、実は全部盛土。つまり造成後に何らかの力が働いて現在のような凸凹が出来たということになります。いやー。発掘してみないとわからないことってあるもんですね。これだけの大規模な土木工事をなせるのは加賀国にあってはただひとつ。前田家をおいて他にないのではないでしょうか。堅田城は中世以来の重要幹線であった小原越を見下ろす位置にあります。この小原越沿いには松根城や切山城など、加越国境を接していた前田家と佐々家が競うようにお城を設けていたエリアであり、小原越がいよいよ加賀の平野部へと入る間際にある堅田城は、まさしく加越国境防衛線の最後部(前田家=加賀側)を担う存在だったと考えるのが妥当なのではないかと思います。一向一揆が使ってなかったとまでは言いませんけれども、その立地と大規模な造成からの推察は以上の通りです。

 

 

堅田城は公園整備がなされているものの、遊歩道以外はほぼ薮で、遊歩道も時期によっては若干危ない(草に埋もれる)可能性があります。筆者が訪ねた際には遊歩道はともかく曲輪内が草ぼうぼうで、わっせわっせと草をかき分けて進む羽目になりました。まあ藪漕ぎよりは数段ましですが(笑)。遊歩道は主郭に至るルートと周回ルートとに分かれていますが、お勧めは周回ルートの方。最短でこのお城を巡るのであればまず主郭に登ってそのまま北へと曲輪を突き抜け、左回りに周回ルートを使って戻ってくるコースが最適です。

 

 

このコース上には各曲輪のほか、主要な堀切と連続竪堀とが含まれ、このお城の見どころをほぼ味わうことができるようになっています。ただ時期を間違えると本当に草が多いので、草が刈られていることを祈りつつお出かけください(笑)。