勝山城の北麓の住宅地の一角にごっつい井戸が残されています。あまりにも周囲に溶け込んでいるので実は見つけにくいのですが、それだと思って見てみれば間違いなくそれとわかるごっつい井戸が、住宅地の間の路地の上に鎮座しています。この地にあった勝山陣屋の名残を留める、唯一の遺構と言ってよいでしょう。周辺を見ただけでは、ここに大名の陣屋があったとは到底思えない風景です。でもここは間違いなく、安房勝山(加知山)藩の藩庁でした。

 


安房勝山藩は元和年間に内藤氏が立藩した後、小浜藩酒井氏の酒井忠朝が安房に逼塞し、その子の忠国に1万石が与えられて再び立藩し、明治まで酒井氏が代々伝えた藩でした。徳川家中においても有力家臣であった酒井家には「雅楽頭系」と「左衛門尉系」の二系統があって、どちらも本家は10万石以上の大大名となっています。雅楽頭系が若狭小浜、左衛門尉系が出羽庄内(鶴岡)ですね。大河ドラマ「どうする家康」で常に家康の近くにあって「えびすくい」なんかを踊っている徳川四天王の一人・酒井忠次は左衛門尉系。勝山陣屋で安房勝山藩主となった酒井家は雅楽頭系なので、残念ながら(?)安房勝山藩は酒井忠次との関係は希薄です。そういえば雅楽頭系の酒井氏はほとんどドラマに登場しませんね。酒井忠次との混同を招き、キャラが立てにくいからでしょうね、きっと。
さて安房勝山藩を立藩した酒井忠国の父・忠朝は、大老職を務めた若狭小浜藩主・酒井忠勝の長男でした。幕閣においても若年寄を務め、普通に行けば老中・大老間違いなしの出世コースを歩むはずだった忠朝がいかなる理由で父親に勘当されたのかは定かではありませんが、忠朝の子孫に対する処遇を見るにつけ、どうやら一筋縄ではいかない深い事情が隠れているようです。幕閣内の政争とかいろんな説があるようですが、本人の行状不行き届きによるものでないことだけは確かなようですね。安房勝山藩の所領は江戸時代を通じてちょいちょい入れ替わっているのですが、安房国内と若狭国内の所領が基本となっていたことに変わりはありませんでした。若狭小浜の本家は勘当した息子の子孫のために自らの所領を切り分けていることになります。ほんとに何があったんでしょうねえ。
酒井氏より前に安房勝山藩主であった内藤家も、家を継いだ重頼は幼少に過ぎるということで所領の一部が没収され、5千石の旗本にまで降格しています(後に高遠藩主として大名に返り咲きますが)。阿波勝山はどういうわけだか「わけあり」の藩主を迎える運命を背負った陣屋ということになるんでしょうかねえ(偶然だと思いますが)。