「道の駅 淡河」は道の駅というより限りなく産直スーパーに近い感じで、開店も10:30と比較的ゆったりしています。筆者が訪れたのは開店前だったので、駐車場に出入りする方はお客様ではなくそのほとんどが出品者。そんな中で道の駅の背後にある城跡にカメラを向けていると、どこからどう見てもよそ者にしか見えないのがちょっと辛いところ。でも車で淡河城に向かうなら、この道の駅を活用するのが断然便利です。淡河城がここにある意味も、道の駅あたりから淡河城を見上げてこそ理解できるはずのものなので。

 

淡河城は長い間、淡河氏の城でした。淡河氏は鎌倉北条氏の子孫のようですが、南北朝時代を生き抜いて在地領主として残った家が極端に少ないことを思えば、淡河氏は実に珍しい一族ということになります(血統自体は赤松氏から養子を戴いた時点で絶えてしまっているようですが)。もっとも淡河氏のご先祖様は北条一族内の勢力争いでは後手に回り、どちらかというとうだつの上がらない存在だったようで、それがむしろ家の存続には都合よかったのかもしれませんが。鎌倉幕府の一味と見られにくかったでしょうから。
淡河氏は南北朝以降、赤松氏との関係を強めていきます。播磨守護職が山名氏に代わった際には山名氏につきますが、赤松氏が復権すると再び赤松氏に従います。更には別所氏に従って、かの三木城攻防戦の折には三木城の補給線としての淡河城を死守し、羽柴秀長軍をさんざん悩ませたと伝えられます。なんでも牝馬ばかりを集めて軍に放ち、牡馬ばかりの軍馬たちが盛ってしまって手に負えなくなったとか、うそのようなほんとのような話まで伝わっています。要するに淡河城を守った淡河定範という人物がそれだけ傑物であったということを示しているのでしょう。定範は後に三木城攻防戦の中で命を落としますが、一族はやがて有馬氏や黒田氏に仕えることとなったようです。
淡河城の最後の城主となった淡河氏は淡河定範ですが、淡河城にはその後の歴史がもう少しありました。天正7(1579)年に定範が淡河城を離れた後、淡河城に入ったのは有馬則頼です。則頼は慶長6(1601)年に三田城に移り、ここで淡河城はその役割を終えることになるのですが、則頼の知行は3,000石から15,000石まで加増され、三田では20,000石となっています(ちなみに則頼の子が有馬豊氏で、久留米藩21万石を得るまでに大出世します)。淡河城は、大名の城だったということになりますね。

 

そういう目線で淡河城を見てみると・・・うーん、小さい(笑)。現在残るのがほぼ本丸だけとはいえ、堀の大きさも天正時代のまんまなんじゃないでしょうか。多くの織豊系大名が自身の城をせっせと大改造している中にあっては珍しいですよね。有馬氏はもともと赤松一族で言ってみれば地元ですから、大名になったことを鼻にかけて偉そうに城を飾り立てると、それはそれで「近所の評判」が悪かったのかもしれないな、と、ついつい現代的に考えてしまうのは私だけでしょうか(笑)。

 

淡河城の本丸堀を隔てた先には淡河氏累代の墓が残されています。もともとここには淡河氏の菩提寺があったとされ、墓だけが残された格好ですが、有馬氏はこの墓もそのまま残したことになります。ここでも近所の目を気にしたとも言えなくはないですが、有馬氏は淡河氏の、とりわけ三木城で華々しい活躍を遂げた淡河定範に対する敬意を表し、淡河にはあまり手を加えなかったのかもしれませんね。
現在の淡河城には本丸の土塁と堀、それにお城風にしつらえられた櫓風建築が存在しています。この櫓、そんなに大した建物ではない(失礼!)のですが、これがあるとないとではお城としての主張度がまるで違いますから、あった方がよいでしょうね、やっぱり。