多古第一小学校のあった場所に、多古陣屋がありました。多古第一小学校(旧多古小学校)の創立は明治8(1875)年。多古藩知事にして最後の多古藩主だった久松勝慈が多古陣屋の敷地と建物を学校に提供したのがその始まりだそうですから、まさしく多古第一小学校のある場所が多古陣屋の場所、ということになります(学校の敷地自体は拡張されているようですが)。

 

多古藩主は久松松平氏でした。久松と言えば伊予松山藩主の久松家が有名ですが、こちらの久松も同系統です。久松氏はもともと三河の国衆で、松平広忠と離縁させられた水野家の娘(異説あり)の於大の方が再婚した家です。於大の方は久松家で三男三女を産んでいますが、於大の方は何しろ徳川家康の母ですから、この子達はみんな徳川家康の同母弟妹ということになります。三人の男子は上から順に康元、康俊、定勝。伊予松山の久松家は実は末っ子の定勝の家系で、多古の久松家は康俊の家系です。ただし康俊は今川氏に人質に出されて武田氏によって甲府に連れ去られ、真冬に岡崎へと帰還する途中で両足の指を凍傷で失うという可哀想な人物で、子供もいなかったので於大の方の実家である水野家から養子(勝政)を迎えています。この養子の家系が徳川の旗本となり、やがて加増によって多古藩が成立し、晴れて大名の家柄となった、という次第です。ちなみに康元の家系は最後まで大名になれなかったのだとか。徳川の縁戚がみんな等しく出世するというものでもないんですね。そりゃそうか。
久松松平氏による多古藩の成立は正徳3(1713)年のこと。大坂城番を命じられた久松勝以が大坂城に近い摂津に所領を得たことで大名に列しました。それ以前にも保科氏や土方氏が多古に陣屋を構えていたようなので多古陣屋自体の歴史はもっと古いのですが、保科氏や土方氏の時代と久松氏の時代との間に陣屋の断絶期間がありますので、今の多古陣屋は概ね久松松平氏のものと考えてよいでしょう。陣屋の東側には堀があって土橋がかかっていたとされ、現在でも土橋の先にあった門の両脇下に当時の石垣が残されています。積み方からすると幕末近くのもののようですが、それでも陣屋当時の石垣であることに間違いはありません。
現在の多古町では多古陣屋も大事に取り扱われており、陣屋跡に設けられた駐車場にはトイレと案内板が整備されています。ここから多古の街並みを散策してください、との趣向のようですので、多古に訪れた際にはこの駐車場を起点に、有難く見学させて頂けばよいのではないでしょうか。