熊倉城は車でかなり上まで登れるはずと、ある意味「たかをくくって」登り始めたのですが、路面が荒れていることったらこの上なく、ついにはこのまま走るとアスファルトでタイヤがパンクするのではないかと思うくらいに路面がささくれ立ってきて、ついに車を諦めて路肩で思案にくれることしばし。私の車を追い越していく頼もしきジムニーが一台。レンタカーが進めない道を突き進むジムニーって、どこかでも遭遇したな。あ、あそこだ。岐阜県の小鷹利城だ。ジムニーってやっぱり強いなあ。。。

 


折角ここまで来たのでと、車はそのまま置き去りにして、歩いて登城口へと向かいました。登城口にはさきほどのジムニーが停めてあって、運転してきたおじさんが「歩いてきたのかい!?」と驚いていましたが、この山道をもう一度出直すくらいならお城は見て帰ろうという意思は固く、そのまま夕暮れの熊倉城へと歩を進めました。日暮れまでの推定時間、あと20分。急げや急げ。
熊倉城は長尾景春の乱の舞台として有名です。長尾景春の数奇な生涯については伊東潤「叛鬼」をお読み頂くのが一番よいのではないかと思います。関東全域を巻き込むほどの大乱の首謀者となりながら大乱終結後も生き続ける景春の生きざまには当時から賛否両論あるようですが、とことんまで生きることを求め続けた景春の執念にはただただ驚かされます。そんな景春が自らの名を刻んだ乱のクライマックスが熊倉城。太田道灌の書状には「日野要害」と記されるこのお城は、鉢形城等の主要な諸城を全て失った景春が文明12(1480)年に最後の拠点とした場所で、水の手を断たれた景春は激戦の中で討死・・・せずに、単身で落ち延びます。「叛鬼」の中で太田道灌は「なぜ死なぬ!」と景春を罵るのですが、そんな道灌よりも景春はずっと長く生き続けます。

クライマックスなのに、終わらない戦い。

景春には景春なりの強い志があって、どうしても熊倉城で死ぬわけには行かなかったのでしょう。さっさと死を選ぶそこらの武士よりも、もっと大きなものを景春には感じます。

 


現在残る熊倉城は直線的な堀に囲まれた長方形の縄張で、鉢形城の支城群のひとつとして後北条氏による整備が加えられた後の姿のようですが、この場所で景春が頑張ったという事実だけは消えるものではないでしょう。ここに辿り着くまでの道のりを思うにつけ、よくぞまたこんなところで挫けずに戦ったものだと(そして落ち延びだものだと)しみじみ思います。
おっといけない。日が暮れる。登城口まで降りてきたら、ジムニーのおじさんも既に姿をけしていました。ささくれだった道を急ぎ下って、レンタカーのところへと戻ってきた時には、ヘッドライトなしには運転できないほどにすっぽりと闇に包まれていました。

 

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