安芸の宮島は日本三景にして国宝・特別史跡・特別名勝という唯一無二の存在でありながら、更には世界遺産にも選ばれているという、特別にして特別な存在です。瀬戸内海に突き出した厳島神社は、平清盛という歴史上の超大物によって建設されたという歴史的意義に留まらず、その存在自体が一個の芸術品。美術史的にも建築学にも貴重な存在であるばかりでなく、島そのものを「神」とみなす日本的な信仰を現代に違和感なく伝えているという意味で宗教史的にも比類のない場所と言えるでしょう。
そんな神聖極まりない場所が、日本史上に残る大きな戦いの舞台となってしまったのが「厳島の戦い」。天文24(1555)年に毛利元就が陶晴賢の大軍を撃破した戦いは、中国地方における毛利氏の覇権を決定付けた戦いであるのは勿論のこと、陶氏が名目上担いでいる大内氏という「幕府勢力」が国人クラスの「新興勢力」に敗れた戦いでもありました。いわば武家政治における大きな歴史の転換点となった大きな戦いが、武家政権を創始した平清盛が創建した神社の境内地で行われたというのも不思議な縁と言えましょうか。
実は、現地に行くまで宮島「小さな島」だと思い込んでいました。小さいというのは、その、つまり、江ノ島よりもちょっと大きいくらいの島かと(汗)。調べてみると江ノ島の面積は0.41平方キロ。最高標高は60メートルです。対する宮島は面積30.39平方キロ。最高標高は535メートル!そのスケールをろくろく理解しないまま、宮島の最高峰・弥山(つまり標高535メートル)に歩いて登ってしまいました。おかげで後の行程が狂ったことときたら、もう・・・折角宮島に泊まったのに、なんでまたごった返す時間帯に厳島神社を参拝しちゃったんだろう。

 


厳島神社の周辺には、厳島の戦いの故地が散らばっています。毛利元就軍が陣取ったのがフェリー乗り場のすぐ近くの要害山にある宮尾城。この山とその周辺のどこまでがお城だったのか、今となってはよくわかりませんし、山の上の四阿のあたりを眺めてみても、「おお」と思えるようなお城ではありません(若干の遺構はありますけれども)。このお城に千人で工事に当たった、というのは、毛利方がこの城に本気で取り組んでいることを陶方に知らせるための、今で言うところのフェイクニュースでしょう。この城は毛利氏の主力が投入されるお城でありながら、無防備でなければいけませんでした。本気なのに無防備。だからこそ陶晴賢はここに全軍を投入する気になったのでしょう。2万の大軍を宮島の狭いスペースに送り込む時点でどう考えても作戦ミスなのですが、それほどの重大な作戦ミスを呼び起こさせた毛利元就という人物の底知れぬ深さにはただ震撼しかありません。
宮島に上陸した陶軍は、まず厳島神社の南西にある勝山城に陣取り、次いで厳島神社の東側にある塔の岡へと前進しました。勝山城が多宝塔のあるところ、塔の岡が五重塔のあるところですね。どちらにも城郭遺構は残りませんが、勝山城には石碑が一本建てられています。

 

 

塔の岡に吉川元春を先鋒とする奇襲軍が攻め立て、小早川隆景の第二軍が襲来した時点で陶軍は大混乱に至ったそうで、何でも退却時にいつもの癖?で火をつけた輩が陶軍にいて、「厳島神社を燃やすな!」と、攻め手の吉川軍が全力で消火活動に当たったという、本当だかウソだかわからない笑い話みたいなエピソードもあったのだとか。ちなみに陶晴賢は海を渡れずに宮島山中を彷徨い、行き場を失って切腹して果てたのだそうです。そのため陶晴賢の記念碑はとんてもない山の中にあるそうなのですが、この時はさすがにそこまでは見てきませんでした。
厳島の戦いを巡るいきさつは「棚守房顕覚書」などの記録によって鮮明に辿ることができます。この覚書を残した人物が厳島神社の神官であった棚守(野坂)房顕で、毛利元就が房顕のために作った御殿が棚守屋敷です。広大な屋敷の跡も現在は石段しか残っていませんが、この石段、タダモノではないスケール感があります。

 

 

毛利氏は彼を厚遇することで、同時に厳島神社に対する毛利氏の並々ならぬ肩入れを誇示することも狙ったのでしょう。
観光客でごった返す(今現在はコロナ問題で静かだと思いますが)厳島神社の周辺には、こんな感じで厳島の戦いを伝える故地が点在しています。ちょっと風変わりな散策になりますが、人混みに疲れたら、ちょっと道を外れてこれらの場所を訪ねてみるのもよいのではないでしょうか。弥山も普通にロープウェイで登れますので、よろしかったらお試し下さい。

 

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