水月窯

 

植木職人をやっているくらいですから、手作りのものに興味があります。

器もその一つです。汲出(くみだし)というのは、湯呑と比べると高さが低くて横長になっている形のものをいいます。基本的に来客に対して出すものを汲出とよんでいます。

この水月窯(すいげつがま)の汲出ですが、とある器ギャラリーにうかがった際お茶を出していただき、いっぺんに気に入り買い求めました。長く作られ続けている器です。

荒川豊蔵さんですが、31歳のころ、北大路魯山人と出会い、その後北鎌倉の星岡窯に招かれました(マネージャーのような仕事だったようです)。

魯山人とともに名古屋で桃山期の古志野を見る機会がありました。志野は慶長の頃生産効率の問題などから衰退し、ついには途絶えていました。荒川さんは高台にかかる赤土を見て、志野は瀬戸で焼かれていたというのが通説であったが、“瀬戸では赤い道具土など用いない。瀬戸ではないらしい。”と考え、そこから以前織部の陶片を拾ったことがあった美濃に戻り、あちらこちらの窯跡をたずねます。そしてついに可児市久々利大萱(かにし くくり おおがや)の牟田洞古窯跡(むたぼらこようあと)で志野の陶片を発見します。この発見によって志野は美濃で作られていたことが証明されました。

39歳の時大萱に窯を築いて、陶芸家としてのキャリアをスタートさせ、志野、瀬戸黒、黄瀬戸など桃山陶の再現を試みました。

そして試行錯誤を重ね、ついに途絶えてしまった志野の技法を現代に甦らせました。1955年、志野・瀬戸黒の技術で人間国宝となります。

 

 

荒川豊蔵

荒川豊蔵の志野焼

 

194652歳の時、多治見市の虎渓山町(こけいざんちょう)に水月窯を築きました。荒川さんは1985年に亡くなっていますが、水月窯では日用使いの染付・粉引・赤絵・唐津などの器が現在も作られています。