福島へ行って来ました。(2)
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住むことができなくなった飯館村の後に
訪れた相馬市の尾浜地区では、
目の前に海が広がる旅館で
お昼ご飯に美味しい魚料理をいただきました。
ところが、
聞くと、そのすべての魚は
県外からの仕入れだそうです。
海の目の前のロケーションなのに、
地の魚は使えないのです。
福島での沿岸漁業と底びき網漁業は、
操業自粛を余儀なくされているのだそうです。
現在までに3万件を超える
モニタリングの結果、
安全な魚もいるのですが、
「試験操業」しかできないのです。
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昼食後、
相馬市原釜地区にある
『相馬市伝承鎮魂祈念館』へと行きました。
ここで、
震災の語り部として、
原釜地区で建設業を営む社長の
体験談を聞きました。
その体験は、
実際に経験をしていない我々にも
すごく重い内容心を大きく乱される内容でした。
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地震があって、
真っ先に向かったのは、
自社が抱えている工事現場だったそうです。
携帯電話は地震直後から
ほとんどつながらなくなってしまい、
連絡が付かない従業員に
直接会いに行きます。
従業員の安否を確認して、
それから自宅に戻りました。
家の中は、家具などがめちゃめちゃになっていて、
どこから片付けの手を入れればよいか悩むほどでした。
家族は無事だったので、
少し離れた南相馬の現場職員のところへ行こうかと
家を出て車を少し走らせました。
カーナビのテレビから、
津波警報が出ていました。
5メートルの津波が来る警報でした。
社長さんは、
仕事柄、沖の防波堤が7メートルあることを知っていました。
5メートルの津波なら、少しくらい堤を越えても、
そんなに影響はないだろうと考えました。
けれど、
車を10分も走らせないうちに、
津波警報は、大津波警報へと変わり、
10メートルの津波が来る予測に変わりました。
このまま南相馬の現場に向かうか、
自宅に戻るか、
少しだけ逡巡した後、
たまたま念のため自宅に戻ることを決めました。
ですが、
このたまたまが大きな運命の分かれ目だったのです。
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自宅に戻って、
家族に避難しようと言いましたが、
当初は「大丈夫」と聞く耳を持ちませんでした。
それでも、
念のためにということで無理やりに避難させることにしました。
近所の魚屋さんにも避難をしようと声をかけましたが、
「最後にもう1件配達に行ってから避難する」と、
その魚屋さんとはそれが最後のやり取りになりました。
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家族で高台までやってきて、
ものの10分しないうちに、
それはやってきました。
遠くから大きくゆっくりと近付いてきたそれは、
高さにすればビルの3階も飲み込むほど。
そして、それが街を根こそぎ黒い闇にしていきました。
その刹那、
高台に上がる階段にびしょぬれのおじいさんが現れ、
「今ここまで一緒だったのに、ばあさんが・・・」と
途方に暮れていたのを
社長さんは忘れることができないそうです。
