こんにちは!
れきしクンこと、長谷川ヨシテルでございます。
今回は、
ゲーム内で武田家の関する特別ガチャが開催中ということで、、、
「武田勝頼」さんをご紹介いたします!
勝頼さんは、昨年の大河ドラマ『真田丸』の影響で、
最近、かなり知名度が上がった武将の1人ですね!
武田信玄の四男として生まれたので、
当初は武田家を継ぐ予定ではなかったのですが、
長男の武田義信が、父の信玄によって切腹に追い込まれ、
次男の武田竜芳は、盲目であり、
三男の武田信之は、夭折してしまったため、
信玄亡き後は勝頼さんが家督を相続しました。
継いだ時期は1573年の28歳の時で、
当主となった後は果敢に諸国に攻め込みますが、
1575年の「長篠の戦い」で、
織田・徳川連合軍に惨敗して多くの重臣を失ってしまい、
武田家の求心力は一気に低下してしまいました。
1581年、勝頼さんは、
武田家の本拠地を「躑躅ヶ崎館(現・武田神社)」から、
築城中の「新府城(山梨県韮崎市)」に移しています。
それまでの館形式のお城ではなく、
本格的かつ大規模な城郭を築城しようとしたようです。
しかし、新府城は、
未完成のまま、火を放たれてしまいます。
火を放った者は、武田家の敵ではなく、
勝頼さん自身でした。
なぜかというと、
織田信長と徳川家康による「武田征伐」が始まったためです。
勝頼さんは、何とか迎え討とうとしますが、
織田・徳川の大軍に加えて、
武田家の一族である木曽義昌や穴山梅雪などが、
敵に寝返ってしまい、
巨大な城郭である新府城では持ち堪えられないと判断し、
城に火を放って逃れ、態勢を立て直そうとしたのです。
しかし、逃走先に選んだ岩殿山城(山梨県大月市)の、
小山田信茂に直前で裏切られ、
仕方なく、武田家ゆかりの天目山の「栖雲寺」を目指しました。
その頃には、
勝頼さんに従う家臣は、わずか30数人だったそうです。
ところが、栖雲寺に行くことを、
敵軍に阻まれてしまった勝頼さんは、
山腹の「景徳院(山梨県甲州市)」に入りました。
手前の松は「旗竪松」といって、
最期の戦に向けて、
勝頼さんがこの地で息子の武田信勝を元服させた時に、
武田家伝来の旗を立てた松だと言われています。
奮戦したものの追い詰められた勝頼さんは、
息子と妻(北条夫人)と共に寺内で切腹して果てました。
境内には、三人の墓が残り、、、
自害した際に使用したと言われる「生害石」が、
現在まで伝えられいます。
景徳院の最寄駅である甲斐大和駅には、
勝頼さんのカッコイイ銅像が立てられています。
秋に訪れると、銅像の周囲は赤く染まり、
それはまるで武田家を象徴する赤とも、
武田家の滅亡を象徴する血の赤とも捉えられます。
もうすぐ、その季節ですね。
よってくだんのごとし。
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