城メグvol.159/長野業正 | しろくろジョーカー公式ブログ

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こんにちは。城メグリストこと萩原さちこです。

 

先週、ちらりと登場した群馬県高崎市の箕輪城。
今週は、その城主として知られる長野業正についてです。

 

 

 

 

 

長野業正は、上杉・北条・武田という強大勢力の狭間に位置する危険地帯にありながら、領地を死守して長野氏の隆盛を築いた箕輪の豪族。

 

名前に代々“業”の字が使われるのは、在原業平の子孫といわれるためです。

 


長野氏を筆頭とする箕輪衆として勢力を着実に拡大した業正ですが、山内憲政の配下であったことから、上杉憲政が北条氏康に大敗する河越夜戦に参陣。
この戦いで、子の吉業が戦死するなど悲しい経験もしています。

 

憲政とはあまり反りが合わず、軍記物などでは憲政は業正の忠言を聞かなかったために、憲政は笛吹峠で武田に敗れたとも伝わります。

 

信玄から業正へ内応の誘いもあったようで、やはり業正と憲政との間は微妙だったとみられます。

 


しかし、憲政が越後の長尾景虎(上杉謙信)に逃れた後も業正は上杉家に義理を立て、北条氏には従わなかったとされています。

 


その後、弘治3年から甲斐国の武田信玄が西上野へ侵攻してくると、業正は2万余の大軍を編成して迎撃。
箕輪城に籠城し、なんと6度も武田軍を撃退したといわれています。

すごいぞ、業正!

しかし近年ではこの通説は疑問視されていて、信憑性は低いものとなっています。

 

謙信の関東侵攻は永禄3年、信玄の西上野侵攻開始は永禄年間とする説が有力です。
業正が没した年から信玄の箕輪城攻め本格化したという説もあり、むしろ戦いを避けていた可能性もあるようです。

 

 

ただ、いずれにしても、箕輪城を後ろ盾に戦乱を生き抜いた業正は、まさに戦国の世を生きた名将といえるでしょう。

 


業正死後は、三男の業盛が17歳で家督を相続。
業盛はそこそこ有能だったと思いますが、信玄にはかなわず。

猛攻を前に、2年後に滅亡してしまったのでした。

 

 

 

 


 

さて、こちら先日訪れた前橋城。
そうです、群馬県庁が建っているところはかつての前橋城跡なのです。

前橋城の前身は、厩橋城。
武田氏滅亡後は織田信長政権下の滝川一益が入る城です。
厩橋城は、長野氏が箕輪城の支城として築いたとされています。
さらに遡ると、厩橋城は長野氏が東上野進出の拠点として築いた石倉城が前身で、石倉城は天文3年の利根川の氾濫で流されため、その三の丸を中心にして築かれたといわれます。

 


激動の戦国時代を終えて前橋城と名を変えてからも、前橋城はけっこう波乱万丈。
暴れ川として知られる利根川沿いにあるため、いかんせん水害がひどい。
そこで江戸時代中期には廃城になってしまうのですが、幕末に復活して再築されたのです。
現在残る土塁などは、この再築された前橋城の遺構です。

 

明治維新後も本丸御殿は継続して使用されていたという驚きの場所でもあります。

 

 

長野氏時代の遺構は残りませんが、ここに城があったと思うと感慨深くなります。

県庁32Fの展望ホールから見下ろせば、かつての城域などを確認できますよ。

 

 

 

 

 

では、今週はこのへんで。
来週もよろしろ~。

 

 

萩原さちこ(城メグリスト)



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