れきしクン・その百四十二【甲斐姫】 | しろくろジョーカー公式ブログ

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こんにちは!

 

 

れきしクンこと、長谷川ヨシテルでございます。

 

 

最近、大河ドラマ「おんな城主 直虎」で、

 

注目を浴び始めている戦国時代の”戦った女性”の1人である、

 

【甲斐姫(かいひめ)】をご紹介したいと思います!

 

 

私事ですが、ゲームで甲斐姫のSRのカードをゲット済みでありまして、

 

限界突破まるを使用して、さらに育成中ということもあったので、

 

これを機に、ご紹介させていただこうと思った次第です!

 

 

甲斐姫が活躍したと言われる時代は、

 

戦国時代が終焉を迎えようとしていた「豊臣秀吉」の時代でした。

 

 

出身は武蔵国(≒埼玉県+東京都)で、

 

忍城(おしじょう)の城主だった成田家の娘として生まれました。

 

 

忍城というのは、

 

こちらのブログで度々取り上げさせていただいていますが、

 

現在の埼玉県行田市にあったお城でして、

 

周囲を湿地帯に囲まれていたことから「浮き城」と称され、

 

「関東七名城」の1つに数えられています。

 

 

歴史の表舞台に大々的に登場するのは、

 

小説&映画「のぼうの城」でも描かれた、

 

石田三成率いる大軍による「忍城の水攻め」の時です。

 

 

豊臣秀吉率いる大軍が、関東を治める北条家を滅ぼすために進軍し、

 

小田原城をはじめとした北条家の諸城を落とし始めたのです。

 

 

その内の1つが忍城でした。

 

 

関東各地のお城が落城する中、

 

忍城だけは唯一落城しなかったという逸話が残されています。

 

 

忍城を攻めた豊臣軍の総大将は石田三成。

 

 

なかなか落ちない忍城に対して、

 

堤を築き、そこに南の荒川と北の利根川の水を引き入れ、

 

水没させて兵糧攻めするという「水攻め」の戦法を取ったといいます。

 

▲復元された水堀

 

 

この時、忍城主の成田家の姫でありながら、

 

先頭に立って戦ったというのが【甲斐姫】であったといいます。

 

 

甲斐姫の活躍は、江戸時代の軍記に頼ることが多く、

 

実際はどのような女性だったのかというのはほとんど不明なのですが、

 

「東国無双の美人」と称されて、

 

「男子だったら、成田家を中興させて天下に名を成す人物になっていた」と言われていたそうです。

 

 

生まれ育った忍城に攻め寄せる豊臣軍に対して、

 

甲斐姫は成田家に伝わる名刀「浪切」を手に、

 

200騎あまりを率いて出陣し、弓矢で敵を討ち取るなど、

 

多くの首を挙げたと言われています。

 

▲現存する土塁

 

 

忍城は最終的には交渉によって開城され、

 

甲斐姫をはじめとした成田家の人々は忍城を明け渡しました。

 

 

その後の甲斐姫の動向は、これまた不明な点が多いのですが、

 

どうやら、その美貌が豊臣秀吉の目に留まり、

 

大阪城に入り、その側室となったといいます。

 

 

秀吉の死後は、

 

淀君の信頼を得て豊臣秀頼の教育係を務めたとも、

 

秀頼と千姫(家康の孫)の娘(後の天秀尼)の教育係を務めたとも言われております。

 

 

この天秀尼は「大坂の陣」の落城後に、

 

千姫の助命の嘆願もあって、命を永らえ、

 

鎌倉の東慶寺に入り、尼僧になっています。

 

 

一説によると、甲斐姫もこれに従い、

 

この「縁切寺」で有名な東慶寺に入ったと言われています。

 

 

最期をどこで迎えたのかのも不明なのですが、

 

おそらくそれは、このお寺ではないかと推測されています。

 

 

「おんな城主 直虎」の主人公の『井伊直虎』同様に、

 

江戸時代に書かれた物語によって注目を浴び、

 

伝承に満ちた部分が多い戦国の女性・甲斐姫。

 

 

実在すら疑問視される甲斐姫ですが、

 

秀吉の側室であったことは確かであるようです。

 

 

個人的には、このフィクションとノンフィクションの狭間が、

 

戦国時代の、特に女性たちの、魅力であるように思います。

 

 

ゆかりの地と言える、

 

忍城、大坂城、東慶寺などに訪れた際は、

 

甲斐姫に想いを馳せてみてくださいませ~。

 

 

 

 

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