東部軍管區情報解説要圖

敵機の進路
(1)
「敵一機は南方海上より伊豆半島より侵入せり」といつた場合は伊豆半島南端に侵入したことである
(2)
「南方海上より静岡地區に侵入せる敵機は東北進しつつあり」といつた場合は静岡方面より伊豆北部叉は山梨地區に向つてゐることである
(3)
「静岡地區より長野南部に侵入せり」といつた際は長野南部に侵入せることである
(4)
「侵入せる敵機は東進を開始し京濱地區に向ひつつあり」といつた場合は山梨地區を経由して京濱西方地區に向つてゐることを示す
(5)
「侵入せる敵機は東北進しつつあり」といふ場合は山梨地區、京濱西北方地區より関東北部地區に向ひつつあることを示す
(6)
「敵は東南方海上より本土に近接しつつあり」といつた際は東南洋上より房総半島に近づきあることを示す
(7)
「房総半島方面に侵入せる敵は北上中なり」といつた際は房総半島を関東東部地區に向ひつつあることを示す
(8)
「京濱地區に侵入せる敵は東南方に退去しつつあり」といつた際は京濱より房総半島を経て東南洋上に向つてゐることである

皇輝會

會長 陸軍中将 井村俊雄

理事長 風間鐵太郎

昭和二十年二月廿五發行

この日、何があったのか?調べました。

東京大空襲
第二次世界大戦末期にアメリカ軍により行われた、日本の東京に対する大規模な戦略爆撃。

1945年2月25日、当日に行われる予定のアメリカ海軍高速空母部隊の艦載機による爆撃と連携して、B-29は中島飛行機武蔵製作所を高高度精密爆撃する計画であったが、気象予報では日本の本州全域が雲に覆われており、目視での精密爆撃は無理と判断されたため、急遽、爆撃目標を武蔵製作所から東京の市街地へと改められた。
進路も侵入高度もそのまま武蔵野製作所爆撃のものを踏襲したが、使用弾種の9割に焼夷弾が導入された。
「エンキンドル3号作戦」と異なる点は、最初からB-29全機が東京の市街地を目標として焼夷弾攻撃を行うことであった。

作戦名はミーティングハウス1号(Meetinghouse)とされたが、このミーティングハウスというのは、東京の市街地のうちで標的区画「焼夷地区」として指定した地域の暗号名で、1号というのはその目標に対する1回目の攻撃を意味していた。
ミーティングハウス1号作戦では、それまでで最多の229機が出撃し、神田駅を中心に広範囲を焼失させて、神田区、本所区、四谷区、赤坂区、日本橋区、向島区、牛込区、足立区、麹町区、本郷区、荒川区、江戸川区、渋谷区、板橋区、葛飾区、城東区、深川区、豊島区、滝野川区、浅草区、下谷区、杉並区、淀橋区空襲、死者195人、負傷者432人、被害家屋20,681戸と人的被害は「銀座空襲」より少なかったが、火災による家屋の損害は大きかった。
宮城も主馬寮厩仕合宿所が焼夷弾によって焼失し、局、大宮御所、秩父宮御殿などが被害にあった。

ミーティングハウス1号作戦は、天候による目標の急遽変更によるもので、攻撃方法も、この後の低空からの市街地への無差別焼夷弾攻撃とは全く異なるものであり、直接の関連はなく、この日に出撃したB -29の搭乗員らにも特別な説明もなく、あくまでも、これまでの出撃の延長線のような認識であった。
作戦中は常に悪天候であり、また急遽作戦目標を変更したこともあってか、B -29は編隊をまともに組むことができず、17機の編隊で整然と爆撃した部隊もあれば、まったく単機で突入した機もある始末で全く統制がとれていなかったので成果は期待外れであったが、結果的には、3月10日から開始される市街地への大規模な無差別焼夷弾爆撃の予告となるような作戦となった。悪天候とB-29の統制が取れていなかった分、日本軍の迎撃も分散してしまい、この日のB-29の損失は空中衝突による2機のみであった。
雲上からの空襲で多くの家屋が焼失したのに対してまともな迎撃ができなかった日本軍は、東京都民の間に沸き起こりつつあった「軍防空頼むに足らず」という感情を抑え込むために、特に悪天候時にも迎撃機が出動できるようレーダーの強化を図る必要性に迫られた。

以上の事が分かりました。

この資料に出会い今まで知っていた戦争末期の様子が分かりました。

私のイメージでは市民はB29の空爆を突然の空襲警報のサイレンや火の見櫓なのど鐘の音で知り慌てて防空壕へと逃げ込むと言うイメージでしたが、この資料を見ると突然ではなく事前に飛行ルートなどを知って避難していた方々もいたと言う事になります。

更にこの資料を調べてみると

(財)東亜交通公社が発行した東部軍管区情報解説要図と言う同じ名前の資料とは別にチラシで防空下の旅行者心得と言う信じられない資料もあります。
戦争末期に旅行していた人たちが少なからずいた事が資料から分かります。

私が学んできた戦争末期の日本の知らなかった真実を知る事が出来ました。

資料は直接、語ってはきませんが言葉以上に伝えてくるものがあります。

当時の本物の資料を手にする事で、その時代に生きた人たちが何を思い日々を生き抜いてきたのか?考えさせられます。

この資料も戦争をくぐり抜けてきた生き証人です。